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八幡 泰彦



7.1957年 承前
 大学に入ったのか演劇研究会に入ったのか判らないままに没入することになってしまった学生生活はこのようにして始まりました。
 入った当時の劇団には(これからは「劇研」としますが)効果のための機材は何もありませんでした。全ての機材は近所のラジオ屋か放送研究会から調達せざるを得なかったので、せめてアンプぐらいは持ったらと相談したら、結局自分が作る羽目になってしまいました。秋葉原で出来る限り安く集めた部品で組み立てた807ppのアンプで、B級の回路、フィードバック一切なしといった、それこそ出力のみに集中したものでした。それというのもスピーカーはトランペットしか調達できなかった事情に合わせることにしたからでありました。音源は主に市販の効果レコード(SP)に頼っていました。そんな具合でしたから前号で「行進の足音」など市販にない音は放送局にお願いする結果になった訳なのです。テ―プレコーダーは東通工製のものが品質や操作性にも優れていたのですが、高嶺の花で手に入れることが難しく、当時の記録を見ても赤井電機製の900型や組キットのAT-1を借り集めて凌いでいたことが判ります。この900型は当時のアンペックス社の600型に操作レバーやツマミの配置など似せたものでしたが操作音がうるさく、重さや品質は敵いませんでした。しかし今考えるとテープレコーダーが開発されてたった5年間に良くここまで普及したものだと感心してしまいます。AT-1は、音は良かったのですが何しろ立ち上がりが良くない。レバーをスタートにして定速になるまで1秒以上かかった。これはスタート時にモーターに電源が入り、更にインピーダンスローラーにテープを巻きつけることでワウを低減していたことによるのですが、なんでこんなものが商品になったのか不思議な気がしたことでした。
 この「不思議な気」はその後、「音響効果」をきっかけに私の行くべき路を選ぶことになる訳ですが、ずっと続きました。その理由に思い当たるのにはこの30年後のことになります。

8.1957年〜1960年
 この頃世間は右に傾きつつありました。勤務評定や警察官職務執行法(警職法)など矢継ぎ早に問題となる政策に反対するデモが大規模に行われていました。大学生も総評や全労、中立系労組、文化人、婦人団体とともに統一闘争の呼びかけに積極的な姿勢をとりました。私自身は積極的な傍観者の立場を取っていました。劇研でも演出部と演技者の一部は積極的な姿勢をとりましたが、スタッフは仕事の忙しさを理由に御免こうむる次第でした。1958年以降、ある理由によってデモや反対闘争に参加するようになりました。1960年の6.15の安保阻止のデモで樺美智子さんが亡くなった時には議事堂前で警官隊とデモ隊に前後を挟まれモミクチャにされていました。

9.1958年 プロの道に入る。
 この年の春の公演はゴーゴリの検察官でした。私は相も変わらず「効果」の担当でした。演出を担当する先輩から音楽をやって貰いたいんだけど。そう云われてもレコードから探すのはやったことはないし、考えるだけで大変そうだ。1年先輩で「効果」を担当していた人が、レコードコンサートを開いて研究会をやろうといい、高田馬場の喫茶店と話をつけてきた。ロシアの芝居だからロシア音楽にしよう、というのでプロコフィエフから始めることにしました。第1回目は10人ぐらいを集めて盛大にスタートしました。ペーターと狼、三つのオレンジへの恋、キージェ中尉、古典交響曲と進んだときは何とかなりそうだと感じ始めていました。「ロシア音楽研究会」は大いに盛り上がり先ずは成功しました。
 次回の準備をしなければと相談していたところに「素晴らしい話があるんだが」と演出部から使者が来ました。「ロシア音楽研究会はどうだったのかね、音楽を決めるのは大変だろう。ついては作曲にしようかと思って先輩が作曲家に相談をしたところ引き受けても良いと云ってくれた」。研究会はもう必要がなくなった。
 作曲家はいずみたくさんでした。赤坂の事務所にお伺いしたら、そこはあの東京電子のあったところでした。無論、電子のあった所は今は広い道路になっていますが。
 いずみさんは気さくに応対してくれました。気難しい人に違いないと内心構えていたのですが、どんな音楽を考えているの、例えば作曲家で云えば。プロコフィエフを考えています、と僕。あ、僕もそう考えていたんだ、と先生。
 古典とキージェだね。そのままいける。何時までに作ればいいの。公演は5月ですので。

 そんな会話があって、録音は4月中頃に決まりました。レコードからの録音かと高を括っていたところオーケストラを仕込んでの仕事だと聴いて仰天しました。
 録音スタジオを手配しなければ、40人からのオーケストラはどうするんだ。初めての経験です。今考えても22歳の青二才に任せられる仕事じゃないよ、これは。
 結局オーケストラは早大交響楽団に頼むことにして、録音スタジオは先生に紹介してもらうことにしました。紹介されたスタジオは市谷にありました。三木鶏郎さんの自宅に作ったスタジオで、素人目にも小さいと見えるのが不安でしたが、駄目を出して断られるのが怖く、そのまま当日になりました。
 ミキサーはどうするの?あそう、一応こっちで手配しとくから。この時一瞬噴出した汗の感触は今でも覚えています。
 スタジオに着いたらミキサーさんは既に準備に取りかかっていました。テープは?あ、持ってこなかったの。ここで買うとテープは店で買うより安いの。良かったよ買ってこなくて。ミキサーはどこですか?と聞いたら、この距離では一本かせいぜい二本、多ければ良いってもんじゃないのよ。天井に吊るしたマイクを指差しながらそう言いました。
 何人ミュージシャンは来るの、ええっ40人?音が録れるかよりも、入りきれるかが問題だ、これは。全ての問題はいずみ先生のOK待ちだ。
 やがて楽団員が着き、楽器が入り先生が登場して「よく入ったな」、の一言で30分の大作の録音が始まりました。このときのミキサーは大河原さんでこの方はその後東京厚生年金会館の技術課に行かれました。これ以来ずっとのお付き合いになります。
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