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第23回

録音との出会い〜そして映画『蝉しぐれ』

橋本 泰夫

<出会い>
 私の仕事である映画録音に関わるようになったのは、偶然と、ちょっとしたきっかけが始まりである。
 録音技師、太田六敏さんと初めてお会いしたのは、昭和42年(1967年)のことである。私は、東京写真大学(現・東京工芸大学)を卒業しプロの写真家を目指していた。
 ポートレートの秋山庄太郎さん、風景の奈良原一光さん、ヌードの細江英公さん、報道写真家の土門拳さん、木村伊兵衛さん等々、第一線で活躍していた写真家に憧れていた。特に報道写真家ロバート・キャパのインドシナ(現ベトナム)戦争の写真には衝撃を受け、チャンスがあれば私も…等と、無謀なことを夢見ていた。
 そんなある日、大阪ミナミの繁華街でお好み焼き屋を営んでいた姉の店にたまたま遊びに行った。偶然そこに、東京から『キャバレー太平記』という日活映画の撮影できていた馴染み客を姉から紹介された。その方が太田六敏氏で、その出会いこそがちょっと大げさだが、私の運命を大きく変えてしまったのである。
 太田さんから「映画の撮影も面白いから、東京に来たときに遊びに来なさい」と誘われ、当時定職にも就かず好きな写真を撮っていた私は、早速、中野区弥生町の自宅を訪ねた。
 その頃太田さんは日活を辞めて独立することを考えていたらしく、テレビの仕事を請け負い始めていた。当時テレビは同時録音が基本であったが、ロケにおいてはアフレコがまだまだ多く、シンクロで全て録るのは難しい時代であった。しかし太田さんは積極的に同録にこだわり、多くのプロダクションから仕事の依頼が来ていた。その仕事をいつの間にか手伝うことになり、初めてマイクというものを手にしたのである。
 そのような経緯から私は、太田さんが独立して作った『櫂の会』録音グループの新人一期生ということになった。
 
 当時使っていたマイクは、AKG-202というダイナミックマイクであった。軽くて丈夫、音質も素直で低域がしっかり出ているとのことで、太田さんは好んで使用していた。しかし振動や風に弱く、新米の私がマイクを持つと「マイクが鳴るぞ」と叱られ、ちょっと風が吹くとボコボコッとマイク鳴りしてその対策に追われた。当時の風防は手製であった。太い番線を半田付けしてスポンジを周りに貼り付け、マイクの先端にはめ込む形式で、その出来不出来が風の強い日の現場を左右するのである。強風の日はガーゼや女性用ストッキングを被せ、それでも駄目ならタオルや、時にはバスタオルをぐるぐる巻きにした。音質よりも風音を防ぐ方が先決なのだ。
 マイクハンガーの中心にゴムで宙づりにすることを考案したのは、私の記憶では太田さんが最初ではないかと思う。また現場のブームは竹竿だが、現場移動に使用していた車が乗用車であったので、二段のつなぎの竹竿を作らされた。そういう生活が2〜3年続く間に、録音の仕事が面白くなって報道カメラマンの夢をすっかり忘れてしまったのである。

<初めての録音技師の仕事>
 初めての録音技師を任されたのは、私にとって忘れることが出来ないテレビ番組『日曜大工110番』である。
 録音助手経験3年目の頃、太田さんから録音技師の仕事を命令された。漫画家で日曜大工の名人某氏が、本箱や下駄箱、踏み台、椅子などを解りやすく説明しながら作っていき完成させる番組で、週2〜3日の撮影で何本か撮りだめをするというものであった。嫌とは言えず「頑張ります」と引き受けたが全く自信はない。あるのは持ち前の度胸だけ。依頼された仕事が比較的簡単であることを理由に、私におはちが回ってきたのである。
 撮影は日曜大工の作業工程やカメラアングルを確認して直ぐ本番になる。勿論台詞はアドリブが主であった。最初のうちは太田氏からコーチを受け、言われるままナグラの針を注意深く監視しながら6ミリテープに収録した。そのうち安心したのか太田氏も来なくなり完全に任されてしまった。
 仕事が面白くなり叙々に慣れてきたそんなある日、漫画家の先生がトンカチを打ちながら説明をするという。簡単な段取りテストが有り、台詞のレベルを確認し本番となる。先生がトンカチを打ちながらの説明する内容が分かりづらいかな…、とちょっと心配しながら夕方スタジオに戻り、16ミリのシネテープにリーレコしようと音を確認した。するとなんということか!トンカチのアタック箇所が全部歪んでいるではないか。「これは大変どうしよう!」と、もう頭は真っ白。太田氏におそるおそる報告すると、次の日、太田氏は何事もなかったように日曜大工の先生に昨日録ったセリフを聞かせてオンリー録りし、トンカチは現場で再現して録音、なるほどこういう手があったか、と感心したのである。 
 当時、音を嵌め替える作業は結構大変なことであったが、その日のうちにあっさり解決させてしまったのである。それにしても失敗したことを怒られるものと覚悟していた私だが、太田氏はそんな素振りは全く無く、それどころか大きな音はマイクアレンジで調整すること、台詞が大きな音とダブる場合は演技者に物音を加減してもらうかダブらないよう注文すること、をしっかり教わったのであった。

<初めてのガンマイク>
 現在、当たり前の様にデジタル機器に囲まれて録音しているが、当時、車等の生活騒音が現在ほど高くなかったとはいえ、ダイナミックマイクでオールシンクロしていたことが夢のようだ。
 1974年(昭和49年)、『赤い迷路』という一年間放映されたテレビ番組を任された時のこと、主演は山口百恵、松田優作、中野良子と言った方々で、三人が三人ともボソボソ声で無指向性のマイクではとても太刀打ちできない。自然とオンリー録りが多くなり「オンリー橋本」とあだ名が付けられた。
 そんな時、ゼンハイザーのガンマイクを太田さんが購入し、困っている私のチームで使わせて貰うことになった。その時最初に耳にした音はある種感動的であった。クリアで芯がしっかりしていてノイズが切れている。しかしマイクの角度がちょっと外れると音がぼけて使い物にならない。まさに名器であると同時に凶器にもなる。マイクマンの腕一つなのだ。もうこのマイクは手放せないとの思いが先行し、ガンマイクが他の班に取られた日は何となく心配で不安な思いをしたものである。

<初めてのワイヤレスマイク>
 初めてワイヤレスマイクを使ったのは、特ラ連で監修された「ワイヤレスマイクハンドブック」にも書かせて貰ったが、1977年の映画『お吟さま』(熊井啓監督)を担当した時である。
 ソニーのガンマイクをトランスミッターで飛ばし、小型マイクを役者に仕込んで収録する。当時としてはそのスタイルが珍しく、宝塚のセットで撮影したときは大勢の方が見学に来た。しかし初体験の成果は散々な結果で終わった。仕込んだマイクは肝心なところで衣擦れや風に吹かれ使い物にならない。オールシンクロを目指したのに何とアフレコの多かったことか。それ以来、ワイヤレスマイクの衣擦れ対策、風対策がマイクマンのもう一つの大きいな仕事になった。
 ワイヤレスマイクの性能は音質も良くなり、形、重量などが小型化され、当時と比べると遙かに進歩した。
 現在の撮影現場においては、ワイヤレスマイク無しでは同録は不可能と言えるほどの必需品となった。その数も作品によってはミキサーのチャンネル数一杯になることもある。そのような現場は忙しくて台本から目が離せない。出来ることならもう一度ダイナミックマイクで…、それが不可能なら外部マイクのみで一作品を通してみたい、等とはかない夢を描いているのだが…。

<映画『蝉しぐれ』でのこと>
 2005年に公開された映画『蝉しぐれ』の現場で、ある青年を久し振り助手として使うことにした。その青年M君は数年前、当連盟の某氏から「映画が好きな生徒がいるのだが、一度会って話をしてもらえないか」との依頼で、東宝撮影所の現場に来て貰った。撮影現場を見せ、「映画の現場は厳しいからそれなりの覚悟が必要」等と話をした。専門学校を卒業後、どうしても映画をやりたいというので、私の見習いの助手としてつくことになった。
 最初は案の定、やることなすこと全て失敗の連続で先輩に叱られてばかり。しかしM君は落ち込むこともなく何とかくっついてきた。私は「初めから仕事が出来る人は居ない、人間は失敗の繰り返しで上達する、同じ間違いをしないこと」等を何度も繰り返した。
 その後、私のスケジュールの都合で、音響効果の仕事を経験させたり、知り合いの録音技師に預けたりした。そのうちに私の知らない技師からも声がかかるようになった。そして久し振りに映画『蝉しぐれ』の仕事で呼んだのである。立場はサードという三番目の助手である。

 機材準備や備品の調達などの作業は最初の頃と全く違ってテキパキと判断し、分からないことは質問してくる。ブームマンとしても成長の後が見られ、何とも逞しく育っているではないか。この調子ならばセカンドに昇格するのも時間の問題だ。
 最近の若者は何だかんだ言われているようだが、「心配することはない」等と感じながらも、ついついM君を叱っている自分に「大丈夫だよ…そんなに心配しなくても」と言い聞かせる。
 思えば40年近くもたってしまった当時の私をM君に重ねている自分に気が付いた。私の師である太田さんは1985年に他界し、その豪傑ぶりを知っている方も少なくなってきた。今度は私が若者を育てる番なのだ。
 映画『蝉しぐれ』は2005年1月に仕上がり10月に公開された。藤沢作品の中で最高傑作と賞される小説を読んだ方は、自分の中にイメージを膨らませ、大きな期待を持たれたようだ。
 映画を観た方々に色々感想を聞かされた。「子役が下手だ」「お笑いの役者が良くない」「風景が多すぎて邪魔」「チャンバラがお粗末」等々、ところがその反対に「子役で泣けた」「お笑いの役者が意外と頑張っていたね」「山形の風景が感動的」「主人公の殺陣はさすが」等々、それぞれ観る立場でこんなに感じ方が違うのかと、多少驚いた。
 あの小説を2時間10分に纏めるのは所詮無理というもの、スケジュールや予算的なことを思えば、現場を携わった人間からすると合格点ではないかと思う。私の考えは唯一つ、結論から言えば親子、夫婦、友人、男と女といった愛がテーマの映画であるということ、それが観客に伝われば十分ではないか、と思っている。

<最後に>
 映画の録音に限らず『音』を収録する際、最も重要なことはポスト・プロでもなく、デジタル機器でもない。現場で収録した音が全てである。マイクロフォンを通して録音した音がその作品の原点である。いくら後で良くしようと頑張っても原音が悪ければどうしょうもない。後輩たちには、機材を大切にすることと、現場での録音技術の大切さをこれからも訴えていこうと思う。
 信じられない事件でウンザリする現代社会。そんななか「夢と希望を観客に伝えることが出来る作品にこれからも参加できるように…」、と年頭に祈願した。


 橋本 泰夫
<経歴>  
生年月日 
1965年 

1967年 

1980年 



 
  1944年生まれ
東京写真大学
(現東京工芸大学)卒業
録音グループ「櫂の会」の設立に参加
(株)櫂の会退社、
フリーとなり現在に至る。
(協)日本映画・テレビ録音協会理事:編集委員長
<主な作品歴>  
1978年 
1983年 
1986年 
1988年 
1989年 
1992年 
1993年 
1995年 
1999年 
2002年 
2005年 
お吟さま(熊井啓監督)
南極物語(蔵原惟繕監督)/地平線(新藤兼人監督)
植村直巳物語(佐藤純彌監督)
敦煌(佐藤純彌監督)
風の又三郎(伊藤俊也監督)/あ・うん(降旗康男監督)
おろしや国酔夢譚(佐藤純彌監督)
病院で死ぬということ(市川準監督)
ガメラ大怪獣空中決戦(金子修介監督)
大阪物語(市川準監督)
龍馬の妻とその夫と愛人(市川準監督)
蝉しぐれ(黒土三男監督)
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