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第22回

私を育ててくれたサイトウキネンフェスティバル

岩井 和久


 「この仕事を選んだのは何故だろう?」 この原稿のお話しを頂いたとき、ふと思いました。私とマイクロホンの出会いは、小学校6年生の時所属していた放送委員会でした。
 給食と下校のアナウンスとBGMを流すだけでしたが、私にとって、小学校の放送室は、とても神聖な場所だった記憶があります。それから中高とギターにはまり、明けても暮れてもギターの生活でした。ギターで食べていければいいなーと思っていましたが、ギター一本で生活していく自信も根性も無く、もしだめなら音楽と関わりのある仕事、コンサートやレコーディングで、大きなコンソールを操るミキシングエンジニアになろう、かっこいいから女の子にもてるぞという甘い考えと不純な動機が、この仕事を選んだ最初のきっかけでした。
 高校を卒業して、音響関係の専門学校に入りましたが、やはりギターばかり弾いていて、ほとんど勉強しませんでした。今思うと、非常にもったいなかったと思います。2年も通って、コンデンサーマイクとダイナミックマイクの区別もつきませんでした。ケーブルもまともに巻けませんでした。結局ギターは東京に来て2年で挫折しました。
 いよいよ就職を決めなければいけない時期になりました。当時、テレビ局が業界、業界ともてはやされ、花形職業でした。「テレビ局は女の子にもてるぞ!」と思ったのですが、専門学校卒では、テレビ局に就職できるはずもなく、テレビ局の仕事もしているという大手PA会社に入社しました。PA会社なので、当然皆、PAエンジニアを志して入社してくるのですが、私だけテレビ局の仕事を希望しました。(だから入社できたのでしょう) しかし自分が思い描いていた仕事とはまったく違い、毎日マルチケーブルを引きマイクをセットし、終わればバラシそして機材の積み込みという繰り返しでした。こんな状態が2年程続きました。ミキサーの前に座りフェーダーを操るなんていうのは夢のまた夢でした。当然ながら、根性無しの私はまた挫折しました。しかし、この時覚えたスポーツ中継のマイクポジション等は、後に大変役立ちました。

《長野朝日放送開局》
 これからどうしようかと思っていた時、地元長野に、4番目の民放が出来る、そこで技術系の人材を募集しているという話を聞きました。もー迷わず飛びつきました。一応経験者だった私は、技術を請け負うテレビ朝日の関連会社に就職出来、4番目の民放、長野朝日放送の制作技術を担当するようになりました。これで念願のテレビ局のミキサーになれたわけです。しかし、周りを見回せば新卒者や未経験者ばかり。音声担当は私と専門学校新卒者1名の二人だけでした。当然教えてくれる先輩などいる訳も無く、自分に出来るのかと弱気になりましたが、せっかくのチャンスだったので、少ない経験とハッタリで、なんとか乗り切りました。なめられてはいけない?と思い必死で勉強しました。今まで、マイクはセットする事はあっても、実際音を聞く事はありませんでした。局にあったマイクを片っ端から聴きました。その中のひとつ、ENGのロケ等でよく使用する[MKH-416]を初めて聴いた時「こんなにしっかり録れるんだ、すごい」と感動しました。
 それから、問題無く日々の業務をこなしていきました。ミキシングコンソールの前に座りフェーダーを操る仕事ができるようになったわけですが、向上心が人一倍強い私は(ただわがままなだけ?)現状に満足出来なくなってきました。仕事は、ニュースや情報番組のスタジオや中継、いわゆるトークの収録・放送が殆どでした。音楽の仕事を志していた事もあり、音楽番組を収録したい、音楽をミックスしたいという気持ちが日に日に強くなっていきました。しかし、そんな番組は無く、キー局や在京阪のプロダクションが担当した音楽番組の事例を雑誌で読んで、「いいなーこんな番組やりたいな」といつも思っていました。

《DPAとの出会い》
 新しいマイクロホンや音声技術は、「放送技術」や「プロサウンド」等の専門誌から情報を仕入れ勉強するしか方法がありませんでした。その当時(10年位前)、雑誌によく載っていて、エンジニアから絶賛されているマイクがありました。DPA(当時はB&K)4006。名前からいって引き付けられるものがあり、音を聴いてみたい、使ってみたいという欲求が膨らんでいきました。しかし、大変高価で、使用する番組が無いので絶対買ってはもらえないと諦めていました。そんな時ディレクターから、「信濃の国を、合唱団を使ってホールで収録したいのだけど、どうしたらいい?」と相談されました。これだ!と思い、購入は無理なので、レンタルで念願のDPA4006を2本借り、収録に臨みました。聴いてびっくり、「こんなすごいマイクがあるのか」と思いました。初めてMKH-416の音を聴いた時の数倍感動した記憶があります。
 それからは、音楽番組が無いからといって、何もしないのではなく講習会に参加したりマイクをデモで借りたりして勉強をしました。

《サイトウキネンとの出会い》
 長野朝日放送が、サイトウキネンを収録するようになって、今年で7年目になります。サイトウキネンとは、指揮者小澤征爾氏が音楽総監督を務める世界的な音楽祭です。最初の収録は、1999年国宝松本城での野外オペラでした。ある日突然ディレクターから、「サイトウキネンの松本城でのオペラ、うちで収録しようと思っているんだけど、一緒に下見にいってくれない?」といわれました。映像は長野朝日放送で担当することになっても、音声は東京から専属のエンジニアが来るのだろうな、小澤さんが指揮だから私が担当することはないだろうと思い、お手伝いして色々勉強しようというぐらいの気持ちで下見に行きました。
 野外でのオペラの公演、それも国宝松本城なので、舞台監督、照明、音響と各セクションが頭を抱えていました。大変だなーと他人事に思っていたのですが、「音声はどうやって収録するの?」といきなりふられました。「え! 俺がやるの?やっていいの?」何も考えていなかったのでその場は言葉を濁して帰りました。ディレクターからも、外部に頼もうか?本当に出来る?と言われました。私には荷が重過ぎると思いましたが、ここでやらなかったら二度と出来ないと思いクビを覚悟でやる事に決めました。しかし、進めば進むほど困難な道のりでした。初めてのオーケストラの収録、それもオペラ、場所は野外そして小澤征爾指揮のサイトウキネンオーケストラ、私のキャパシティーを遥かに越えていました。曲目はベルリオーズの「ファウストの劫罰」知らないし、聴いたこともない。「何それ?」という感じでした。楽譜も追えないし、鳴っている楽器もわからない状態からのスタートでした。
 収録は、音響担当のサウンドクラフト(現SCアライアンス)の山中さんに御協力頂いて、ソリストのワイヤレス、オーケストラのミックスアウトを分岐してもらいました。独自に合唱の収録で使用し感動したDPA4006を数本使用しました。音声中継車などありませんし、どこに頼んでいいのかも分からなかったので、仮設のプレハブを建てその中に音声卓を組みました。後は無我夢中で録音しました。小澤征爾氏のチェックも通り無事に放送する事ができました。
 無事に終えた余韻に浸っている暇もなく、その年は年末にもサイトウキネンオーケストラの公演がありました。これも長野朝日放送で収録することが決まりました。曲目は、マーラーの交響曲2番「復活」です。もちろん知りませんし、聴いたこともありません。収録は長野朝日放送のみ、レコーディングも入りません。自分たちでマイクを全部セットしなければなりません。コンサートホールでの本格的なオーケストラの収録は初めてです。「マイクはどうする?3点吊りは?足りない機材は?」すぐに私のキャパシティーを越えました。しかし、投げ出すわけにもいかず、サイトウキネンを何度も担当しているレコーディングエンジニアの方に助言を頂き無事収録することが出来ました。
 こんな貴重で激動的な1年を体験したからこそ現在の自分があると思います。3年前から映像はハイビジョン、音声は5.1サラウンドで収録し同時に六本木ヒルズに生中継しています。これが各方面で高評価を頂き多少ではありますが認められるようになってきました。昔は絶対購入してもらえなかったDPAのマイクも何本か購入して頂きました。
 もちろん5.1サラウンドで収録・生放送するまでも大変険しい道でしたが、昔は大変に思っていたことが、今は楽しんで仕事が出来るようになりました。
 今年は、長野県内の中学生を無料招待したオペラ「フィガロの結婚」とマーカスロバーツ率いるジャズのトリオとサイトウキネンオーケストラの競演「ガーシュウィン」を収録しました。

《終わりに》
 サイトウキネンを収録するようになってから7年、今では楽譜も楽に追えるようになり、鳴っている楽器もすべて分るようになりました。指揮者による曲の解釈の違いも分るようになりました。
小澤征爾氏の音楽に対する情熱、妥協のない姿勢を目の当たりにして、いい加減だった自分が少しずつ変わっていきました。サイトウキネンフェスティバルに携わるようになって、仕事に対する取り組みが変わってきたように思います。
 私は地方局の音声マンです。昔は、いい機材や設備がなければいい作品が出来ない、キー局にはかなわないと思っていました。そんな事はありません。地方局にだって素晴らしい作品ができるはずです。これからもいい作品が残せるよう努力していきたいと思います。
 ありがとうございました。


 岩井 和久
1966年8月15日 生まれ
日本工学院 音響芸術課 卒業
1991年2月 トラストネットワーク入社 長野朝日放送 制作技術所属
1999年から サイトウキネンフェスティバルの録音担当
2003年から アフィニス音楽祭のCD録音担当
2005年7月 高校野球地区予選をマトリクスサラウンドによる生中継
2005年10月 軽井沢ラブソングアワードをマトリクスサラウンドによる収録

2003年 サイトウキネンと1000人合唱 カルメンで、JPPAアワード銀賞受賞
2004年 サイトウキネン ブルックナー交響曲7番で 日本映画テレビ技術協会
      映像技術賞受賞
      サイトウキネン バルトークで、JPPAアワード銀賞受賞
資 格
1級舞台機構調整技能士 音響
第1級陸上特殊無線技士
第2種電気工事士
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