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八幡 泰彦


11、1960年代の話、まだ続きます。

 1960年当時、私は24歳になっていて、本来なら大学を終え、社会人となって人生の荒波に踏み出していなければならない筈でしたが、A君に紹介されたアルバイトが嵩じて忙しく、しかし面白い世界に足を突っ込み、それからどうも抜け出せなくなったと思っていました。これは私の日頃の「優柔不断」の性癖のなせることで実は本人チットも反省していない。3年ほど前にバイト先の会社に「このまま就職しちゃおうか」などと考えたりして上司に叱られたことの轍を踏みそうになっていたのだと今にして気がつく始末です。

 それにしても毎日が驚きや発見の連続だったことは間違いありません。例えば効果プラン(選曲も含まれていました)料が、「カン」当たり幾らと云うのを聞いてどういうことなのか、それがどうも10分を単位にしていることらしいと分かりましたが、この理由はやがて「本編」の仕事をすることで納得することになります。

 テープの編集をするときに黄色のデルマ(ダーマトグラフ=軟芯の、皮膚にも書ける色鉛筆)を使うことや編集には専用のスプライシングテープを用いること、録音した内容を書き込めるリーダーテープがあること、それも紙製のものとテープと同じ材料で出来ていて時間計測に使うものなど、プロって凄いなよく探してくるものだなと感心したものでした。学生時代、デルマのあることを知らず、マジックインキを使い、その太さに悲鳴を上げたことやリーダーテープと称して録音テープと同じ幅の赤だの緑などの透明のテープを買ってきたり(これが暗がりでは殆ど読めなかった)、セロテープで編集の真似事をして、これが程なく剥がれたり、糊が緩んだり、ライブラリーの態をなさなかったりしたことが何かみっともなく思えたものでした。

 このあとあっちこっちのスタジオに通ううちに黄デルマが白デルマにとって替わるようになりました。これもテープにバックコーティングが施されるようになり、それが今までのテープの色が酸化鉄の茶色から黒に変わったからだと聞いてなるほどと思いました。劇研にいたときテープが軋んで困ったことがありましたが、それがこの“バックコーティング”をすることで解決されるのだと聞いて、テープの軋みにはみんな困っていたのかと胸に落ちたものでした。
 この頃、プロ用のテープは米国のスコッチ社の111番が主流で、国産のものはTDKやソニー、東芝製のものがありましたが“スコッチ”には敵わなかったようでした。
 劇研に入って見様見真似でやってきたことが如何に素人っぽかったか、プロは如何に手間とお金を掛けているのか、勉強になりました。

 園田先生のライブラリーは5インチのテープが殆どでした。音を探すとき、7インチのテープよりもこの方が手早く出来るし、運ぶにも都合がいい。
 当時はもう先生のなすこと全てが“プロ”だと、信仰に近いものがありましたから何でも感心につながってしまうようになっていました。
 村松梢風作の「残菊物語」の音を先生がプランすることになりました。尾上梅幸丈の主演になるものでしたが、これの稽古に就いたことがありました。弟子入りして一年以上になるわけでこの頃になると音の用意も大分任されるようになりました。本読みの段階で先生に音の用意をして一人で行くようにと言われて稽古場に行きました。

挿絵

 梅幸さんが一寸音を聞かせてというので、汽車の音を聴いてもらいました。君が選んだの?ふーん。一寸不気味な間があって、デコイチの音はいいんだが、この時期まだ走っていなかった筈なんだけれど。これには参りました。予め先生に聞いてもらえばよかった。そんなことに思いも及ばず、軽率に事を運んでしまった、先生に恥をかかせてしまったことになると悔やまれました。まだ日にちがあるんだからと狂言方のお兄さんから言われ、反省しました。帰ってから先生に報告をしたら、梅幸さんに言われたと思うよりも観客に言われたと思いなさい、大勢のうちにはこれは違う、これこそ本当だと真実を知っている人がいるものだと諭されました。自分の成果を人の目に晒すことは恐ろしいことだし、それで生計を立てて行く事は更に相当な覚悟が要ることだと思いました。

 その年の秋ごろ、「本編」の仕事が入りました。松竹京都の作品で五所平之助監督の「わが愛」でした。先生は京都往復が忙しくなり、私は留守番の毎日が続きました。後で知ったのですが平行してもう一本の仕事も引き受けていて、その作品はロケ部分を先に撮っておこうというもので足摺岬に行くことにしたと留守宅に連絡が入りました。連絡は毎日のように入ったのですが、当時の電話事情は殆どが自動になっていなかったので用件のみ、事務的にならざるを得なかったものですが仕事の忙しさはヒシヒシと伝わって留守を預かる責任の重さを感じました。と言うのもダビングの態勢になったらライブラリーから必要なものを持ってくるようにと言われていたからです。そうこうする内に電話が入り、夜行で行くことになりました。ところが台風の季節で大雨のため列車が東京で足止めになり電話も不通で連絡が取れないまま翌朝を迎えました。
 早朝に出発し、京都まで12時間ほどで着きました。太秦までタクシーで飛ばし、撮影所で聞いたところ、守衛さんに「録音部に行って聞いてみろ」といわれたので録音部に行きました。遅れてしまったことが原因でピリピリしているのを覚悟していたのですが、却って御礼を言われ驚いてしまいました。現像所のラッシュの上がりが遅れて今日は仕事にならなかったことやこれで一息つけ、のんびり出来たこと、もしも効果さんが準備万端整えて手ぐすね引かれたらえらいこっちゃ、わしら働かにゃならんし。先生は木屋町の宿にいてはるのとちゃうか。で木屋町の宿に行きました。
 先生は演出助手(映画の場合助監)の方と何か笑いながら話していたので、事の顛末を説明したら一瞬例の恐ろしい顔になり、一寸連絡をしてくれればよかったのにと言いました。が、すぐニコニコして、それは無理な相談だったね、ま、今日はゆっくり休みなさいと慰めてくれました。その夜はすぐ窓の下を遅くまで通るサンドイッチマンのカスタネットの音までもやさしく聞こえたものでした。
 「わが愛」というのは井上靖の短編の「通夜の客」を映画化したもので、宝塚を卒業した有馬稲子さんのデビュー作になるものです。音楽は芥川也寸志さんで、撮影所の録音ステージで録音し、そのままダビングまで付き合うことになっていると言う話を聞きました。
 考えるまでもなく、これが「本編」、35oの初体験になりました。

(カット 芦谷耕平) 
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