2017年5月1日 第156号  前 目次 次
三崎崇郎さんの死を悼む

先輩である三崎さんが亡くなった。

三崎さんは特ラ連の初代事務局長を努められた。
 私は特ラ連の開設準備段階の連続的な会議には参加していましたが、本業と関連団体の実務に追われ、途中から担当を交代せざるを得なくなりました。その渦中、特ラ連が発足、関連団体経由で付き合いが始まりました。その時の事務局長が三崎さんだったわけです。
 新しい団体を作るにあたり、初代理事長の八幡さんとともに三崎さんは東奔西走され、旧郵政省の指導のもとに「特定ラジオマイク利用者連盟」を無事スタートさせることが出来ました。
 三崎さんは、1991年まで日本短波放送に勤められました。私個人としては日本短波放送は極めてなじみ深い会社でした。アメリカ大使館の前にあった日本短波は貸録音スタジオがあり、専業貸スタジオに比べて料金が安く、銀座の私の会社からも近く、30坪くらいのスタジオは、当時私が制作していた番組の音楽録音に最適で週一くらいのテンポで通いました。そのスタジオにあった、ノイマンの47、49、RCAの44BXなどが三崎さんの後年の趣味を活かす素材となったわけです。そのことは私が編集した「私とマイクロホン」に書かれております。

在りし日の三崎さん

さて、スタート当時の特ラ連の事務局はまさに手探りの時代であったようです。800メガという周波数帯は放送局のFPU帯と同居であり言わば軒を借りていたわけです。当然、お互いに連絡を密に取らなければならない、さらに会員社の免許申請も代行する、それらには見本はありません。全部自分たちで考え出さなければならない。手が足りない、ということで結局家族の手も借りることになります。そのようなことから三崎さんは奥さんの手をかりて夫婦で事務を処理したわけです。
 ワイヤレスマイク同士の混信に対して、電気通信大学出身の三崎さんは、日本短波放送時代の経験もいかして理論的に対処することが出来ました。これは説得力がありました。
 後年この混信対策は、チャンネルプランとして絶大な力を発揮するわけです。
 三崎さんがこつこつ積み重ねてきた礎の上に、現在の特定ラジオマイク運用調整機構があるのです。

(大野 正夫)


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