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第27回

ステーション'70 で学んだ重み

市来 邦比古


 私は今世田谷パブリックシアターという公共劇場で音響チーフに就いている。また演劇の音響デザイナーとして、毎年いくつかの作品を内外の劇場で手がけている。  演劇畑の音響効果プランナーという形で1970年代から仕事を続けていて、現在あるのもその流れの結果である。私は直接の教えを請う形で誰かに師事することもなくこの仕事に就いて現在に至っている。自分で工夫し、開拓してきたわけだが何か回り道をしたという気はしていない。

〈音響の仕事はじめ−ステーション’70−〉
 マイクロフォンとの出会いは私がこの世界に入ったそもそものはじまりにさかのぼる。
 はじめ私は、1969年12月に渋谷に出来たライブスペース「ステーション’70」で音響スタッフの仕事を始めるところから音響の世界に入ってきた。20歳のころである。その後演劇畑をずーっと歩いてきたのだが私の音響への入り口は音楽からだった。
 70年代のサブカルチャー台頭と機を一にするというかいささか先行するように渋谷に出来たのが「ステーション’70」である。天井が鏡張り、数十台のブラウン管の壁、アクリルとガラスのインテリア家具、インテリア雑誌や店舗デザイン雑誌に取り上げられ、もっとも時代で新しい空間としてもてはやされた。テレビマンユニオン制作の「テレビジョッキー」という番組がブラウン管の壁面を背景に中継されて始まったことも記憶に鮮明だ。
 店はその当時のスナックという軽食とアルコールも出す喫茶という形態で、ジャンルを問わない音楽のライブ演奏をメインにすえた企画で運営するという実験的な空間であった。店の営業に先駆けたオープニングではジャズの生演奏に舞踏が演じられ、加えて美術家のパフォーマンスが組み合わされるという、時代の前衛が集まったイベントとなっていた。
 店の社長は当時の三菱重工社長の息子である牧田吉明である。彼については様々なエピソードがあり毀誉存亡の烈しい人物であった。専務には現在現代美術紹介で著名なミヅマアートギャラリーの三潴末雄がいた。私は彼に誘われてそこにいたのだった。
 日本ビクターが店を作るに当たって協力関係にあり、機材はすべてビクター製だった。スピーカは天井からその当時日本ビクター製で注目を浴びていた球形スピーカを多数吊るしインテリアとマッチを取っていた。卓はビクターの小ホール用というか学校放送用の上級品を流用していた。入力チャンネルは8チャンネル程度だったと思う。4チャンネルのソニーのテープレコーダがあった。これを使用して録音したものは現在貴重な音源となっている。またカラーカメラがあって生演奏している画をテレビに映すこともしていた。そのためスイッチャーやコンバータなど簡単なテレビ放送設備も付いていた。
 これらの設備を明日から動かしてくれといわれ、習熟のための期間もなかったように思う。オープニングのころの記憶はあいまいになってきている。毎日毎日が試行錯誤の日々であった。オープニングから一月近くがたった1970年の元旦、明治神宮に店のみんなと初詣に行った事をはっきり思い出す。そのころから安定してきたのだろう。
 私は音楽の素養はほとんどなかった。父が技術者だったからか、ラジオや時計を分解して遊ぶ子供だった。父の転勤で東北、近畿と移った後中学から東京にいる。中学のときから秋葉原に出かけてはジャンク品を買ってくるという育ち方をしてきた。高校のとき演劇部の友人と知り合いになり、演劇に興味を持ち始めたが大学は電気通信大学に入った。
 時は60年代後半、本を読むときはジャズ喫茶に行き、毎日入り浸っていた大学の近くのスナックではジュークボックスのビートルズを聴く日々で特別音楽に関わるということはないまま過ごしていた。
 それがである、「ステーション’70」のメインのプログラムはニュージャズと言われる時代の最先端のフリージャズであった。高柳昌行、吉沢元治、高木元輝、豊住芳三郎そして伝説を作った若き阿部薫らが週2、3回出演していた。音楽史に残る出来事の一つであった。渡邉貞夫カルテットにいた本田竹廣が自分のユニットで初めのころ出演していた。早稲田大学出身のジャズグループがいくつか出ていた。また前衛音楽集団、小杉武久とタージマハール旅行団もレギュラーで出ていた。邦楽界のコーディネーター杉昌郎による邦楽の中のジャンルを越えたユニットや組み合わせの企画演奏会も定期的に行われた。生の音楽による強烈なシャワーを浴びたのである。毎日毎日音楽漬けになった。ライブの合間に再生するレコードを自由に選んでは購入していた。
 当初ビクターのマイク数本とナショナルのコンデンサマイク1本しかなかったように記憶している。店は正直言って赤字続きだったろう、機材を新たに購入することなど考えられない、マイクにシュアーのSM58やSM57を手に入れたかったが無理であった。その当時非常に高かったのだ。ドルが360円の時代である。アイワがボーカルに使用できる単一指向性のマイクを開発し発売したと聞いて、DM68を1本手に入れた。名機である。ソニーがバックエレクトレットコンデンサマイクを出したころである。楽器用としてECM−23を購入した。雑誌の記事などを参考にPAを行い、録音していた。

〈三上寛のこと−ステーション’70−〉
 1969年の12月の寒い日だったと思う、ぜひ歌を聴いてほしいと紹介されて店に来た若者がいた。若き日の三上寛である。屋上で社長らと聴いた。鮮烈だった。すぐ出演が決まり、翌週からライブが始まった。放送コードに完全に引っかかる詩を強烈な声で歌い上げ、時代が高度成長に浮かれているところに毒矢を打ち込んだようだった。
 私は生演奏を録音していた。いい録音のものはその後店が閉店した後も持っていた。その中に三上寛のものもあった。三上寛のマネージャがデビュー20周年の何かイベントの材料になるようなものを探して人づてに私の元を訪れた。私はそのテープの存在を教え、二人でそのテープを聴いた。20年ぶりに聴いた音のクォリティは思っていた以上によかった。オープンテープ特有の圧縮感はあるものの三上寛の叫ぶような歌声が歪まず、転写もせずに録られていた。ボーカルとギターに1本ずつだけのシンプルなPAであり、2チャンネルに振り分けられて録音されていた。すべてつくった歌の詩をノートに残していた三上がそのライブで即興で歌った歌だけは残していなかった。マネージャ氏はこれをディスク化したいのでテープを貸してほしいということで喜んで手渡した。それが100枚限定アナログディスク盤で発売された「一九歳二ヶ月十六日夜。」である。近年やはり限定盤でCD化された。歌詞がレコ倫に引っかかる内容なので限定盤でしか発売できないのである。
 ガラス箱の中でPAもしながら録った音である。VU針が振り切れるちょっと前でキープされている。ビクターの球形スピーカが大音量に耐えられないので卓のVU計とモニタースピーカで終始フェーダを操作して歪まないようレベルを調整していたのだ。これが録音に功を奏していた。そしてフェーダから手を離さないことが身についていた。その後の演劇、ダンスのオペレーションでもっとも大事な事をこの時点で獲得できていた。

〈ニュージャズ−ステーション’70−〉
 ニュージャズの阿部薫や高木元輝らのサックスもPAしていた。これもフェーダから指を離せない。これには別のエピソードがある。ギターの高柳昌行はフェンダーのギターアンプに向かい合わせに座りギターを近づけてハウリングさせて演奏する。一度そのスタイルで音が出ると止まらない、すさまじい音の洪水が始まる。高柳のソロの後メンバーが加わる。音の闘いだ。ベースが咆哮する、ドラムがこれでもかというリフを連発する、ピークがしばし続く、もう終わるかと思えても高柳はやめない、無我の境地に入っている。高柳から時間で止めていいといわれたが、どうすればよいか、本人がそういってもトリオで演奏しているのである。あるときコップに水を入れてフェンダーのアンプのそばに持っていった。演奏に隙間が見えたのだ。ジャズはミュージシャン同士の呼吸であり語り合いで進行している。それがわかったのだ。生で毎日聴いてきたおかげだ。水を見てしばらくするとその日のテーマメロディを高柳が演奏して終わった。これもその後の演劇やダンスでの音のきっかけ出しに多くのことを教えてくれた。俳優やダンサーとの呼吸のやり取りをこの時点で学んでいた。
 「ステーション’70」は71年1月末にクローズした。私がライブスペース「ステーション’70」で学んだことは音響のことでもマイクのことでもなかった。音とともに空間にいること、演奏家=パフォーマーとともにそこにいること、学ぼうと思っても学べないことを身につけられた。

〈演劇の音響のはじめ〉
 その年の9月私は演劇の音響の仕事を始めた。「ステーション’70」のスタッフが演出、照明、美術を務める作品である。劇団群像座公演、別役実作飯島岱演出「AとBと一人の女」、はじめはオペレータだけであったが9月に上演した後、間を空けて11月にまた上演する際、演出から音楽の選曲を私に任せるといわれ、私の最初のプラン作品となった。
 翌年、6月に群像座公演、清水邦夫作坂本義美演出「朝に死す」が上演された。「AとBと一人の女」を含めすでに3本の作品のプラン、オペレータを経験してきた。毎日稽古場に通いながら俳優が役を自分のものにしていく時間を共有することに最も面白さを感じていた。人が演劇の時間の中で変わっていく、壁にぶち当たって逃げ出す寸前まで苦闘しそれを乗り越えていく姿を見、結果としての上演が観客に賛同されたときの感動を、俳優・スタッフとともに共有することの喜びを持てた作品であった。この仕事を一生のものにしようと思った作品となった。
 ここでワイアレスマイクが活躍した。「朝に死す」のはじまりは都会の中の裏町の小さな空き地に若い男と男におぶわれた女が逃げ込んでくるところから始まる。男が何らかの抗争の末、逃げているとき追っ手から撃たれた銃弾がたまたま男の近くにいた女の足に当たり、男は思わず女を背負い一緒に逃げてきたというわけだ。
 その当時群像座は西武鉄道西武新宿線の線路沿いにあった。下落合の駅のそばである。公演は群像座の3階のアトリエ(稽古場)で行われた。建物は鉄骨スレートで出来ていた。電車が通るたび音が鳴り響き、振動もするような状態だった。劇の中では深夜、物音も聞こえない時間が進行する。電車の騒音は稽古中はじめは気にならなかったが、上演が近づくにつれ障害になってきて、パネルなどでふさごうとしたがあまり効果がなかった。一方演技上で劇の初頭に走りこんできて女を投げ捨てる演技がうまくいかない。俳優は若い、力が有り余っている、それがいけないとして演出が階段をおぶったまま駆け上がって走りこむことを考え、稽古が始まった。
 群像座の前の線路沿いに道路が走っている。上り方向には駅、下り方向数10mほど行ったところに踏切がある。私はその踏切から男優が走ってくることを提案した、それもワイアレスマイクを仕込んでである。上演時間になると観客には踏み切りの音が聞こえる。ワイアレスマイクを通した実際の音である、俳優が走り出す。息音が入る。電車の音がする。上り電車である。マイクを通した電車の音が聞こえた後、観客席のすぐ後ろを電車が通り過ぎる。下り電車が通り過ぎるときもある。生の電車が通った後、マイクを通した音が聞こえる。俳優の息が上がる、階段下で女優をおぶり階段を駆け上がるというよりやっとの思いであがってくる。観客席は暗い、音楽が走り出すときからかかっていて、最高潮になっている。3階に入るときマイクを手放す。薄暗い舞台に二人が登場し女を男が投げ飛ばす。音楽がカットアウト、劇が始まる。このあと何度も電車が通るが全く気にならない、その場所の環境として観客が受け入れるのである。上演開始時間を確実にするために、駅で時刻表を確かめ、毎日通過時間を記録し、踏み切りが鳴り出す時間を確認しトランシーバで連絡を取り合い、走り出すきっかけを出していた。
 ここで使用したワイアレスマイクをどう手に入れたか記憶が定かではない。はじめはFM放送帯を使用する民生用を使っていたと思うが周波数の安定度に問題があり、プロ用を手に入れて使用していたと思う。27MHz帯だった。ミキサーはSONYの6チャンネルアマチュア録音用のものを使用し、アンプは真空管、スピーカはステレオ用を流用していた。

〈そして今〉
 そして40年近くの日々がたち、2005年にはワイアレス32波、入力56チャンネルのデジタル卓を使用した音楽劇のプランを手がけている。この連載に登場した諸先輩方の努力のおかげで手に入れられた技術である。感謝して止まない。


〈市来邦比古プロフィール〉
1949年生まれ
1970年


1976年



1982年

1990年代







近年



現在
電気通信大学 通信学科 中退
小劇場演劇の黎明期にフリーの音響
家として様々な劇団、演出家と共同
作業を行う。
劇団第七病棟創立に参加、現在にいたる。唐十郎作「ふたりの女」、
「ビニールの城」、「雨の塔」
など。
東京下北沢本多劇場のこけら落と
しを担う。
1990年代に入ると、東京渋谷のシアターコクーンの
こけら落とし自由劇場公演「A列車」をはじめとする
コクーンレパートリーの作品に加わる。
 世田谷パブリックシアターの設計に当初から加わり、
1996年運営に参加して現在にいたる。長久手町文化の家、
可児市文化創造センター、北九州芸術劇場、山口情報芸術
センター、松本市民芸術館の音響設備設計アドバイザー・
コンサルタントを務めた。
近年(現在2006年)の作品は松本市民芸術館串田和美
演出作品「コーカサスの白墨の輪」、新国立劇場松本修
演出作品「城」、永井愛作演出作品「やわらかい服を着て」、
二兎社永井愛作演出作品「歌わせたい男たち」など。
現在、財団法人せたがや文化財団技術部、技術部長代理、音響課長。
日本舞台音響家協会副理事長、中央職業能力開発協会・舞台機構(音響)中央技能検定委員、劇団第七病棟所属
(文中敬称略させいただきました)

訂正

91号「私とマイクロフォン」の11頁、『そのホルマリン線とそのボビンを使い』は『そのホルマル線とそのボビンを使い』に訂正いたします。謹んでお詫び申し上げます。



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