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第17回
これぞレコード録音の醍醐味
千葉 精一  .
《まえがき》
 「音や」の世界では現在もご活躍をされている諸先輩方が多くいらっしゃいますが、かく申す私も40年ほどこの世界に身をおいており、「私とマイクロホン」というテーマについて語ろうとする時、どうしても若い頃に体験したマイクロホンにまつわる鮮烈な思い出が頭に浮かんでしまう。
 本文ははなはだ古い話で恐縮だが何卒お許しいただきたい。

《「吹込」「切込」って何のこと?》
 私がキングレコードに入社したのは昭和40年で前年には東京オリンピックが開催され高度成長の幕開けの時代であった。
 前年の昭和39年の入社試験に「第3次池田内閣に何を望むか」という小論文があり、『レコード会社にはあまり関係のない変なテーマだなアー』という印象をもったことが今でも鮮明に記憶している。
 めでたく入社し、配属部署も「吹込所」となった。『吹込み』という言葉は当時でも何か古めかしい響きがあったが昭和5年に創業されたキングレコードの歴史を感じさせる特異な名称でもあった。
 『吹込み』という言葉は今や死語に等しいものであるが何となく古き時代の録音風景がイメージされる言葉である。
 その後昭和47年には「録音部」というごくあたりまえの名称になってしまった。
当時「吹込所」には「録音課」と「切込課」という二つの課が設置された。私は「録音課」に席を置いていたが「切込課」というのはラッカー盤にカッティングする部署で、今で言う「マスタリング」にあたる部署であり、課員たちは「切込み隊」などを連想させるユニークな部署名で知人に名刺を出しても「何をやっている部署ですか?」とよく質問されたそうである。この部署名もその後業務を整理統合し「技術課」とごく普通の名称に変更され、キングレコードの組織図からユニークな部署名は消滅してしまった。

《「外録」時代とマイクロホン》
 昭和30年代の後半にはステレオ・LPが全盛期を向かえ、高度成長と共にレコード各社は発売本数も多くなり、キングレコードでも昭和39年には新しいスタジオが完成し、ふたつのスタジオを有していたが自社のスタジオだけでは処理できない状況となってきた。
 そこで、都内の公会堂やホールを昼間に非公開で借り、録音スタジオとして利用していた。これを「外録」と呼んでいた。【写真−1 外録風景】
 ホールや公会堂は当然夜の公演が主になるため、昼間は空いていることが多く、しかもお客を入れないためホールとしては手間もかからず有り難いユーザーであり、借りる我々にとっても経費的メリットも大いにあった。
 主に利用したホールは「東京厚生年金会館・大ホール(新宿)」「文京公会堂(現文京シビックホール)」「都市センターホール(紀尾井町)」「杉並公会堂(荻窪)」「イイノホール(内幸町)」「世田谷公会堂」などであった。
 録音機材はすべてキングレコードが持ち込むわけだが、その量は小型トラック1台満載であった。
 主な機材は・・・・・
○ 録音機:AMPEX 351型 ポータブル機:歌のダビングがある時は2台
○ ミキサー:AMPEX MX-35 ×7台 
○ マイクロホン:ノイマン U-47 ×4本、ノイマン U-67 ×6本、ソニー C-37 ×4本、
 RCA 77DX ×2本、ALTEC 639B ×2本、AKG D-20 ×2本
 等がメインであった。昭和43年頃にU-87が数本追加された。
○ モニター・スピーカ:AMPEX 620型 2台
○ エンドレス・テープ式エコー・マシン 1台
○ 高砂製マイクスタンド10本以上(ハイスタンドを含む)
他にケーブル類、など等・・・・
これらの機材を「今日は厚生年金ホール」「明日はイイノホール」「翌々日は文京公会堂」と正にジプシー生活という感じであった。
 トラックから機材を降ろし、ステージ上やモニター室までこれらを運ぶわけだが、何と言ってもコンデンサ・マイク用のパワー・サプライが10個以上入ったトランクが目茶苦茶重く、車寄せから階段を上って機材を持ち込む厚生年金ホールやイイノホールは特にきつかった記憶は鮮明である。
 最近はファンタム電源で多くのコンデンサ・マイクは動作するが、真空管全盛の当時はそれぞれのコンデンサ・マイクに1個ずつのパワー・サプライが必要な時代であった。
 通常は「音出し」が10時でディレクターやチーフ・エンジニア、ミュージシャンはその頃三々五々集まってくるのだがアシスタントである私はその1時間以上前からはアルバイト1〜2名を使い、ミキサーを組上げ、結線し、ステージに椅子や譜面台を並べ、マイクを立て、マイクチェックを済ませて本番録音に備えるわけで時間に追われる大変な作業であった。
 夕方、すべての録音が終わると今度は機材をバラスのだが、夜の公演の仕込みスタッフとステージ上で作業が重なり険悪になることもしばしばであった。
 肉体的にもヘビーで若くなければできない仕事であったが、ホール関係の音響スタッフをはじめ事務所との交渉、アルバイトの手配、運送屋との連絡など人間関係やコミュニケーションの勉強と共にスタジオに比べて条件の悪い環境の下で如何に工夫して魅力あるサウンドを創るか、についてはこの「外録」での経験がその後の音作りや機器のトラブル対応時に大いに役立った。
またいろいろなホールの音響関係の方とその後も親しくお付き合いさせていただいたことも有益であった。

《エコーはトイレで639B》
 この外録が盛んに行われた昭和30年代後半から昭和40年代前半の頃はまだマルチ・トラック録音機も3チャンネルや4チャンネルという時代であり、じっくりと時間をかけてトラックダウンの作業をすることはまず無く、出先の現場にて2チャンネル・ステレオの完パケマスターを仕上げる必要があった。
 ミキサーはAMPEC社製のMX-35【写真−2】でマイク入力数は4本、これを4〜5台カスケード接続して16〜20本にするのである。
写真からも判るようにイコライザもAUXセンドも無く、ステレオ定位を決める「左」「センター」「右」の3点スイッチと音量調節の丸型ヴォリュームが付いているだけのシンプル極まりないミキサーであった。
その場でマスターに仕上げるために最も苦労したのがエコー/リバーブ処理である。
当時はまだデジタル・リバーブなど無く、スタジオではEMT-140というドイツ製の鉄板式リバーブレーターが広く使われていたが重さが100キロ以上あり、内部の鉄板がスプリングで吊ってあるという構造で、とても毎回移動してセットできるような代物ではなかった。
 そこで、外録でのエコー処理はホールの何処かにエコールームの変わりになるような空間を見つけ、これを利用することで解決しようという方法がとられた。
 各ホールの施設の中で、「音が響き、外部の雑音が少ない場所があるか」を探すのだが、印象的なのが文京公会堂や杉並公会堂での女子トイレ、都市センターホールの天井裏、厚生年金ホールの通路などである。イイノホールは専用のエコールームを備え付けていた。
システムとしては【図−1】をご覧頂きたい。
@ エコーを付けたいマイクの出力をパラボックスにて別け、一方は本線へもう一方はエコー用ミキサーに送る。つまり今のミキサーでいうプリフェーダーでのエコー・センドということなり、本線の音量を下げてもエコーへの送り量は変わらないためエコー音のみ残ってしまうという現象になり、ミキシングはなかなかテクニックを要するものであった。またエコーを付けたいマイクの本数もエコー送り用ミキサーの入力数(通常は4本)に制限があるためどの楽器にエコーを付けるかに付いて考え、選択せざるを得ない状況であった。
A エコー用調整卓の出力はエンドレス・テープを使ったエコー・マシンに入る。
B エコー・マシンに備えられた数個の再生ヘッドとフィードバック回路を通った音の出力はかなりエコーの付いた音ではあったが、ややピリピリとした感じの粒立ちが目立ち、もう少し滑らかなリバーブを得るためにエコールームへと送られる。
C エコールームに送られた音はAMPEXのアンプ付きスピーカで再生される。
D スピーカから放出された音はより豊な残響を伴った音となり、2本のマイク:ALTEC社製639B型マイク【写真−3】にてステレオ収音され、本線のミキサーへと戻される。
という仕組みであった。
 このエンドレス・テープ式エコー・チェンバーとエコールームを組み合わせた仕組みは私の恩師である菊田俊雄氏(現 音響技術専門学校 教務部長)が考案した方式であり、岸洋子の「夜明けの歌」やザ・ピーナッツの「情熱の花」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」などに特徴のあるエコー・サウンドを聴くことができる。
 前置きが長くなったがこの639B型マイクはその風貌から俗称「鉄仮面」と呼ばれ、内部には双指向性のリボン・マイクと無指向性のダイナミック・マイクの2ユニットが収められ、この組み合わせによって指向性を選択できるという、デザイン的にも機構的にもユニークなマイクロホンであった。【図−2】
 スピーカで有名な米国ALTEC社の製品で音質はまろやかでコンデンサ・マイクに比べ高域の伸びはやや劣るものの、適度な高域減衰は柔らかで透明感のある残響音を得るにはうってつけのマイクであった。
 エコールームのマイクセッティングには「スピーカからの直接音をなるべく拾わないようスピーカの軸上にマイクを向けないこと」「エコーの広がりを得るため2本のマイクはなるべく離してセットし、高さも変えて位相差が出るようにセットする」などのノウハウもあった。
 
《メンバー表にはない女性ハミングが・・・・・》
 外録では本社のスタジオでは考えられないような珍事がいろいろ起こっている。
 昭和41〜2年頃だと思うが文京公会堂でテディー池谷さん(ラテン・ピアノを演奏させたらピカイチで日本の「カーメン・キャバレロ」と言われたピアニスト:若くして他界された)の録音をしている時のことである。
 当時は流行っていたヒット曲をインストルメンタル(楽器演奏)、つまり「歌の無い歌謡曲」が多く録音、発売されていた。
 録音機が回り本番録音してしばらくしたらモニター・スピーカから適度なエコーを伴った美しい女性のハミングが聴こえてきたのである。
 勿論ステージ上には女性コーラスやシンガーは居ないので、すぐに「エコールーム(女性トイレ)だ!」ということになった。しかしさすがベテランのディレクター、慌てず「どうせNGテイクである、そのまま演奏を続けさせ、トイレに入った女性に気持ちよくハミングを続けさせよう」という配慮から演奏をストップさせずにプレーヤーにはそのまま続行させたのである。でも良く考えると悪趣味でもあったと思われる。
 ハミングはしばらくすると聴こえなくなり、その後水洗の流れる「ジャー」という音の後に扉が開閉する「バターン」という音そして再び「ハミング」と水道の音がして曲も終わり、トイレを出る扉の音がしてこのテイクは終わりとなり「すみませーん! ノイズが入ったのでもう一回お願いしまーす」と曲の取り直しが始まったわけである。
 「このトイレは録音に使用しますので使用禁止」という貼り紙をしておいたのに・・・、トイレがエコールームとは知らずに入ったこの女性はスピーカから今流行っている曲が聴こえてきたので、気持ちよく口ずさんでしまったのである。
 この女性はミュージシャンの奥様で本職はプロのバックコーラス・メンバーで当日見学に来ていたのであった。「どうりで巧いと思った!」でもトイレでスピーカが鳴っていて何とも不思議に思わなかったのであろうか?
 当時スタジオでも639Bは既にあまり使っていなかったのでスタジオ・ミュージシャンでも異様な格好の「鉄仮面」はマイクロホンに見えなかったのかもしれない。

《ジャケットのマイクロホンが逆さまだよ!》
 【写真−4】をご覧ください。このジャケットは昭和40年11月発売の東海林太郎傑作集というLPレコードで、売り上げ20万枚というLPとしては大ヒットしたアルバムであるが、何とジャケットに写っている639B型マイクは正面と裏面が逆さまになっている。
 東海林太郎さんはマイクに向かって直立不動の姿勢で歌うことで有名であったため、このイメージをレコードジャケットにしようと考えマイクを立てたデザインにしたと思われる。
 実際、録音に使われたマイクはノイマンのコンデンサ・マイクU-47(真空管式)【写真−5】であり、ジャケット写真の639Bではなかった。
 ジャケット撮影は通常写真スタジオで行われ、当社のジャケット・デザイン担当者に「撮影用に何かマイクを貸してくれない?」と頼まれ、あまり録音で使われなくなってきた639B型マイクを渡した記憶がある。しかしマイクに裏と表があることなど気にしないカメラマンとデザイナーにより確立50%でマイクの立ったジャケット写真が撮られたという結果になってしまった。
 当時マイクを貸出した私としては「マイクの正面はこっちだよ」と教えなかったことに後悔も残るが業務用のマイクの知識がないお客様にとっては気にする程の問題ではないかもしれない。
 このアルバムは杉並公会堂で収録されたものだが、ミキシングエンジニアは当時録音課チーフ・エンジニアであった長尾和夫氏である。
 私は入社したての若造アシスタントで機材の組み立て、ばらしに忙殺される日々であったがこの録音はとても印象に残っている。
 昭和47年に亡くなられた東海林太郎さんのまとまった録音としてはおそらく最後の録音ではないかと思われる。病を押しての録音であったがその歌唱力は往年の歌声と遜色のないものであった。
 このアルバムではカラオケのみが杉並公会堂で収録され東海林太郎さんの歌は本社スタジオでダビングされたものである。
 当然ステレオ録音であり、SP盤当時の録音が多い東海林太郎さんの録音の中では音質的にも優れたもので、貴重な録音と言えよう。

《むすび》
 最近の録音はデジタル化が進み、極端を言うと指示されたマニュアル通りにオペレートすれば簡単に目的とする楽器の音色、エコーやリバーブが得られ、あまり経験をつまないエンジニアでも「そこそこの音作り」が可能となってきている。
 勿論デジタル時代にはそれなりのノウハウや難しさも有るが最近ではマイクロホンを立てて生楽器を録音したことが無いエンジニアもいると聞く。
 マイクロホンを立てなくても音楽が仕上がることにやや寂しさを感じ、2チャンネル同時録音に有りがちであったバランス的失敗も無く、個性の強いミュージシャンに出会う機会も少なくなった最近の若手エンジニアが何となく気の毒に思えるこの頃である。
                                          以 上

千葉 精一

元キングレコード潟\フト技術部部長
クラシックから演歌、ロック、ジャズと幅広いジャンルを担当。
約6,000曲のミキシングを手がけた。
現在 株式会社キングエンタープライズ取締役
音響技術専門学校講師
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