八幡 泰彦     
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私の揺籃期 何処へ行くのかどんな人生になるのか考えもしなかった頃
 要するに何も判っていない頃の手探り時代のことだが、音については興味も何もなかった頃にマイクには触れたことがあった。それは多分14歳頃に遡る事になると思うが、ウェブコー(Webcor)と言ったか、ワイヤーレコーダーを友達の家で見せて貰った時のことだ。
 録音機は初めての体験で、妙に興奮したことを覚えている。聞かせてもらったのは「外郎売り」の口上を誰かがそれこそ立て板に水の勢いで申し立てているものだった。その付属としてマイクが付いていた。
 今考えてみると普及品のお手軽なもので、アルミダイキャストの軽い物だった。薄茶色の米国製品で、考えるにプリモのOEMかとも思える(時期としては疑わしいが)。音質は憶えていないが、ショックは感じなかったと思う。これがマイクを手にした最初だった。アーと云ったかどうかも定かではない。

初体験時代 見る物聴く物吃驚する事ばかり
 その後5年ほどして、逓信博物館で東通工のP型テープレコーダーのデモに出会った。この製品の完成度の高さには仰天した(高さに仰天するほど精査できるわけではないが)。帰って直ぐに父にせがんだものだが、勉強して稼ぐようになったら自分で買えばよいと云うのが返事だった。因みに今の価格では百万円を越しているに違いない。
 また、この頃録音コンク−ルといったものが雑誌社やTRK(判るかな?)の主宰でよく催されていたが、自分には高嶺の花で手が届く代物ではなかった。応募作品のスペックに収録用のマイクとしてよく登場した「三研」の名前に憧れを感じていたのを憶えている。
 やがて24歳代になって音響効果の園田芳龍師に師事する事になってその三研のP-3型に出会った。
 棒状黒塗り、無指向低インピーダンス、多治見の3Pがコネクターとして付いていて風防付きの、ま、言わば出会いのショックは、例えるなら山歩きをしていて突然レンジャー部隊に出くわしたような、プロはこう作ると云う物を見せられた感じだった。
 主にサウンドロケ用に重宝したが、音質に関係する「厚み」「幅」「延び」と云ったような評語を実感させられたマイクロフォンだった。当時3万円だったと思うが、私の一ヶ月の給金は約五千円だったことを考えると感慨暫しである。

春期発動期時代 音の事なら何でも手を出した危険な時代
 考えてみると非常に危険な、行動力はあったが勉強はせず、仕事ばかりが生き甲斐という、用意周到ならざる冒険野郎だったに違いない時代で、何一つ威張ることは思い出せない。ナレーションを録るにの手元にあったマイクを使ったら、よく云えば何か艶っぽい、悪く云えば芯のない、今なら何だコリャと云われる音だった。スポンサーは変わった感じで内容に合って良いんじゃないの、といってお金を呉れたが、気になりだして調べたら一寸響きのある部屋で無指向性のマイクを使った結果であった。
 その人とは今でも付き合いがある。ホントのことは云うまいと思っているが、今でも汗をかく。暫くしてマイクの指向特性と周辺の環境の選び方などについては薀蓄を述べられるようになったのは云うまでもない。

私の音響修行 一心不乱弾道ミサイル時代
 今でも続いていないとは云えない。一心不乱ただ走り続ける状態は今でも変わらないが、マイ歴史としてはPAに対するニーズが始まった時期に居合わせたことだろう。
 武道館にビートルズがやってきて、ウェスタンカーニバルとかグループサウンズが大流行し始めた。
 ボーカル用には東芝のGベロが使われた。勿論音が良かれということが採用の第一の理由だったが、それ以上に指向性に優れていること(ハウリング対策上)で選択されたに違いない。が、「読めるほど近寄るな」(これはトラックの荷台等に貼られていた)「吹いたら殺すぞ」「触るな、掴むな、(スタンドから)外さないで」等とミキサーの切実な思いがマイクに貼られた小さな紙に込められている、いわば「神器」とも云うべきものだった。
 そのベロシティマイクが、スタンドごと振り回されるは、投げられるは、倒されるはで、疾風怒濤というか、マイクの辛苦受難時代というか、凄いことになった時代だった。
 しかし、バンド用にボーカル用ハンドマイクが開発され(SHURE社ヴォーカルマスター等にセットされた現行のSM58の原型か)、相次いで舞台にも採用されることになるまではそんな時間を必要としなかったのは世界的な傾向だったのだろう。
 マイクの使い方が「振り」中心になり、唄い手がマイクを手に持って自分でマイクポジションを決めながら唄うスタイルが多くなった。テレビなどの影響だろうが、そのまま「カラオケ」の流行によって日常化していった。
 形状の特徴としては、マイク本体の側面に導気孔が設けられ、マイクを握ることでその穴(溝)を塞ぐと突然無指向になり、ハウリングが起きる一寸困ったものであったが、AKG社のものとAIWAが奮闘していた。
 
SHURE社からSM58が発表され、筐体のユニットに導気孔を設け、手に握られることの影響をなくすことに成功した。このお陰でハンド型の定番スタイルが決まってきた。時をおかずカラオケが流行し、マイクの前での直立不動スタイルは姿を消した。
 
結婚式でも演説会でもマイクをガバッと握り締め、オンマイクでという、今では日常となった風景はこのころからだったと思っている。つまり、この頃からマイクに対する畏敬の念は無くなり、序でにミキサーに対する尊敬の眼差しにも出会わなくなったのも「マイクガバッ」を許しちまったのがいけなかったのかと自戒の念に襲われる。
 舞台上でマイクロフォンが数多く使われるようになって、マイクコードについて太さや硬さ、色などが問題視されるようになったのもこの頃だった。これら諸問題に対処した結果、舞台はカラフルになり、またマルチケーブルの採用なども舞台がすっきりすることに大いに寄与したものである。
 1960年代の後期からマルチ録音が盛んになり、それに伴ってマイクも音源ごとにセットされるようになった。
 この時期はマイクの品質が上がりエレクトレットコンデンサーマイクが開発され、低電圧で働く小型高性能で安価なものが手に入るようになった。私自身マイクを選ぶ方法は変えることにした。
 ダイナミック型のマイクは電源が要らない、頑丈である。しかしフラックスに弱い。
 コンデンサー型のものはデリケートで、電源がいる。要するに収音現場に合わせて選べばよいのだと割り切ることにした。マイクに銘柄で差がでるようなデリケートな仕事は自慢じゃないがしていない。実際マイクロフォンのメーカーは国内外に目を向けたところでそんなに多いわけじゃないし、品質も良くなっているので苦労は現場や売上の回収に向ければよいのだと決めた。

そこでワイヤレスマイクの事である
告白的自伝
 ワイヤレスさんと出会ったのは昭和38年のことだったか歌舞伎界の事で、東宝と松竹が和解し、歌舞伎座で松禄、幸四郎、越路吹雪(敬称略 ごめんなさい)の豪華キャストで菊田一夫による時代劇ミュージカルを上演することになった時でした。
 音楽をテープに収め、ヴォーカルは女優一人、つまりワイヤレスの送受信機は一台のみでチューニングはマニュアル、バーニアで同調をとるものでして、震えました。
 事故は低周波段で起きたくらいで高周波段の信頼性は高かったのだと思うけれど、音声中断の事故の責任問題で殺されるかと思ったくらい責められて、あわや軽挙妄動に走るかという一瞬もありました。
 400MHz帯の1ピースの、ハンドでもラベリアにしても使えるもので、アンテナの長さと電池のライフの短さがネックでした。この辺りでのアンテナは約2メートルで1波長の長さが約4メートルあるわけで、電波が何か反射するものにぶつかると、半波長の折り返しキャンセルしあうことになる、いわゆるデッドゾーンがいたるところに発生する、という始末の悪い代物でした。
 しかし、演技者にしてみるとこの開放感は素晴らしいものらしく、技術者の苦労は無視されて、35年ほど前に舞台ではもて囃されたものでした。機械は優秀、悪いのは技術者の腕前なんてことが何時の間にか定着してしまったのはこの頃だったかもしれない。
 そういえば既にこの時期、メーカーは土日休み、事故は金曜の夜公演、休みなしのサービス体制は夢のまた夢ということは今も変わらず。つまりその頃の私たちの発言権が強ければこんなぼやきは…….いいんだ。
 衣裳に組み込むとワイヤレスの形が露骨で、なにかうまい方法はないかと2ピースのワイヤレスを探してきた。
 腰に送信機、マイクのヘッドが延びて襟元に装着できる、当時流行りだしたマイクのヘッドを小さくしてスタジオシーンをすっきりさせようとする風潮に合ったものでした。これは具合が良かった。しかし妙に感度が高い、というか感度設定がなにか馴染まないものでした。リミッターが浅く設定されている。調べてみると「仕込み用に作られたもの」とある。
 つまりカメラに入ることのないように物の陰やランプの笠の上にセットして使うものらしいということが判ったりして、われら以外の技術者は一歩先を行きながらふんだんに予算を使えるものらしいと僻んだは僻目か。40MHz時代は素朴ともいえる腕力で解決できた「体育会系」の毎日でした。でも、面白かった。
 いわゆる「微弱」のレベルが変わったり、空いているチャンネルを探したり、今考えると遊牧民さながら、気分的に不安定な落ち着かない日々が続くなか、20世紀も終わらんとするとき郵政省から呼び出されたのでありました。
 東商ビルに行くと約20名ほどの人がいて、知った顔はいないと思ったとき田村先輩が「オウッ」と手を上げたのでホッとした。そのうちにワイヤレスマイクの新しい規格について説明があったのですが、ワイヤレスマイクの新規格設定と実施について別の折りに語ることにして、音波という微細なエネルギーを捉え、電気信号に置き換え、コードや電波に乗せることを考えそのようにした人のことを尊敬します。偶然とはいえ、発達の途上に居合わせた私たちのこと、幸せだったと思います。ネ、ワイヤレスさん?


八幡泰彦 職歴
1965年株式会社 サウンドクラフト創立
現在 取締役会長

現在、特定ラジオマイク利用者連盟理事長、JATET 音響部会長
他 音響、舞台関係多数の役員を務める
 
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