第6回
テレビ朝日映像株式会社  井上 哲
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 私がテレビの業界に入り、音声マンとしてマイクロフォンと付き合いを始めてから、まもなく10年になろうとしています。たった10年ではありますが、この間、放送の音声を取り巻く状況は劇的に変わりました。制作機器のデジタル化が進み、近年ではBSデジタル放送が開始、地上波デジタル放送も着々と準備が進むなど、放送そのものがデジタルの時代を迎えました。そして、このデジタル化により、私自身の人生を変えたと言っても過言でないのが、5.1chサラウンド放送が可能になった事です。
 音声エンジニアを志していた学生時代の自分は、映像に伴うテレビの音声こそが、本当の"臨場感"演出できるメディアだと思っており、テレビの音声マンを目指しました。コンサートやスポーツ観戦が好きだった自分にとって、テレビでその臨場感を体感できる事が夢であり、仕事となった今でも常に意識を置いています。
 その"臨場感"を劇的に表現できる、5.1chサラウンドによる放送がBSデジタル放送で実現できると聞き、最初は一視聴者の立場としても放送開始が大変楽しみでした。放送が5.1chになるとどんな音が聴けるのか、客観的に期待を膨らましていました。
 ところが、"デジタル放送では音声も5.1chの大迫力で!"といったマスコミや家電メーカーの宣伝と現実はかけ離れ、実際には5.1chの放送はほとんど行われませんでした。5.1chの放送を実現するためには制作はもちろん、局内処理、送出、家庭での受信に至るまで様々な技術面・運用面での課題があった事を当時はまだ知る由もなく、ただ放送業界にとってせっかくのチャンスなのに、なぜ5.1chを放送しないのか、疑問に思っていました。
 今までにも、放送界では様々な形でサラウンドに対するアプローチがされています。マトリクスエンコードを使ったドルビーサラウンドを始め、多くの先輩方が尽力をされてきましたが、おそらく"ハードが普及しなかった"事が最大のネックとなり、一般に知られるところまでは到達しませんでした。しかしBSデジタル放送開始時点では、DVDの普及によるホームシアターブームもあり、"5.1chサラウンド"という言葉が一般にもかなり認知されており、家電メーカーの売り出すAV機器はMPEG2-AACデコーダーを内蔵し"BSデジタル5.1ch対応"を謳っていました。ハードは普及しつつあったのです。これほどの追い風がある今、5.1chサラウンド放送を実現しなければ、2度とこのようなチャンスは巡ってこないのでは、という音声マンとしての焦りもありました。
 そこで、当時ちょうど自分が担当となったBS朝日の格闘技中継番組"パンクラス"を、5.1chサラウンドで放送することを目指そうと考えました。当時はまだ、サラウンドと言うと映画や音楽しかイメージされない中で、"格闘技のサラウンド化"に対しては、"意味があるのか"という否定的な意見が大半で、実績のない我々が誰もやった事のない5.1chサラウンド放送を実現することに対しても、"無理だ"という声がほとんどでした。
 しかし、実際の収録時にサラウンド用マイクをたった2本だけ立てて、4chVTRに収録した"簡易サラウンド素材"のインパクトは予想以上で、会社に戻って試聴した我々音声スタッフはもちろん、カメラマンやVEスタッフも驚きの声を上げるほど、その臨場感は衝撃的でした。私はこの番組を5.1chサラウンドで放送することに大きな意味があることを確信し、以後、サラウンド放送実現へ向けての研究、実験、説得に突き進みました。
 実際に放送を実現するためには、想像を大きく上回るような多くの壁を克服しなければなりませんでした。MAでの後処理でなく、リアルタイムで5.1chをMIXする事、ステレオ制作時と同等の費用と人員で制作する事、番販用の2chステレオ素材も同時に制作する事、収録媒体はどうする?編集は出来るか?局内運用は?送出設備は? 2chステレオのCMとの切替は? 家庭用チューナーでダウンミックスされるステレオ音声との互換性は?etc ...
 次から次に発生する障害と、その度に聞こえる"やっぱり無理だな"という声に対して、ではどうすれば出来るのか、何をやれば可能になるのか、ひとつひとつ潰してゆく作業は決して簡単ではありませんでした。しかし、最初は否定的だった人も、試験収録の素材をサラウンドで聴いてもらうと、"百聞は一見にしかず"の逆ですが、実現に大いに協力してくれるようになりました。
 周囲の大きな理解と関係各所の多大な努力が実り、2001年10月、格闘技番組"パンクラス"は、スポーツ中継番組としては国内で初めての5.1chサラウンド放送を、毎月のレギュラー放送で実現することになりました。番組自体は決してメジャープログラムとは言えませんでしたが、日本中の多くの放送音声関係の皆さんから激励やアドバイスを受ける事が出来、また半年のOAの中で、様々なノウハウを蓄積することが出来ました。
 "パンクラス"は半年で終了し、一般視聴者に5.1chサラウンド番組が認知されるにはまだまだ程遠い状況でした。そういった状況の中、日本中が熱狂した"FIFAワールドカップサッカー"でNHKさんが放送した決勝戦の5.1chサラウンド放送は、マスコミなどで様々な形で取り上げられ、一般視聴者の5.1ch放送に対する認識を深めてくれました。そこで、私も半年間のOAで積み上げたノウハウを利用し、秋の"プロ野球日本シリーズ"という大舞台で5.1ch放送を実現したいと考え、それから数ヶ月、また研究と説得の日々が始まりました。
 生放送、大舞台という今までにないプレッシャーの中、多くの関係者の後押しがあり、プロ野球日本シリーズ(西武VS巨人)第3戦において、プロ野球中継初の5.1chサラウンド生放送を実現するに至りました。やはり大舞台での実現には注目度が高く、一般視聴者や、放送局関係者の間でも5.1chサラウンドに対する認識は格段に上がりました。
 その甲斐もあり、その後の"キリンチャレンジカップサッカー日本VSアルゼンチン"、"松田聖子カウントダウンLIVEパーティー2002-2003"など、昨年秋から年末にかけて、5.1chサラウンド生放送を続けて実現することが出来ました。ちょうど同じ頃、NHKさんや民放各局でも5.1chサラウンド放送が活発に行われるようになり、もはや5.1ch放送は特別なものではなくなってきたように感じています。視聴者が、5.1chの番組を選べる時代が、ようやくやって来たのではないでしょうか。
 これまで多くの課題を克服するパワーを自分が生み出すことが出来たのは、やはり5.1chサラウンドの素晴らしさに確信を持っていたからと、自分がこの仕事が心底好きであったからに他ならないと思います。通常の業務をこなしながら5.1chのシステムを構築し、周囲を説得するという日々が2年近く続きましたが、自分にとっては実にあっという間の日々でした。
 ただ、自分自身、今まで5.1chサラウンド放送を実現することに力を注ぎすぎて、肝心のミキシングに関してはまだまだ思い通りになっていないのが現状です。5.1chサラウンドが認知され、システムが確立されてきた今こそ、それを利用して"素晴らしい音"を創り出すという、音声マン本来の仕事に、今後はより努力しなければなりません。
 5.1chサラウンドと出会う前まで、私自身日々の業務の忙しさに追われ、マイクロフォンや、音創りの本質というものを疎かにしていた部分もあったように感じます。5.1chサラウンドという、非常にやっかいで、しかし大きな魅力を持つ未知なる相手を前にして、音声エンジニアという仕事本来の奥深さや難しさと、大きな魅力、やりがいを感じてきています。
 このやっかいで魅力的な代物に、もっと多くの若いエンジニア(自分も若いです、もちろん)と一緒になって立ち向かい、共に切磋琢磨し、未来の放送音声を担って生きたいと思いますし、僕自身、もっともっとがんばらなければ、との思いを新たにし、筆を収めたいと思います。ありがとうございました。




井上 哲
1971年1月18日生まれ
ご希望により写真を
削除しました。
1994年3月
早稲田大学理工学部電子通信学科卒
同年 椛S国朝日放送入社
2000年12月 テレビ朝日映像梶@所属
2001年10月 BS朝日"パンクラス"にて、5.1chサラウンド放送を実現
日本映画テレビ技術協会・映像技術賞 受賞
映像情報メディア学会 放送番組技術賞 受賞
2002年2月 映像情報メディア学会・放送現業研究会にて、"BSデジタル放送における5.1ch送出"を発表
2002年10月〜 BS朝日"プロ野球日本シリーズ第3戦"
”キリンカップサッカー日本VSアルゼンチン"
"松田聖子カウントダウンLIVEパーティー"にて
5.1chサラウンドによる生放送を実現

 
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