この号からシリーズものを企画しました。「私とマイクロフォン」というタイトルでマイクロフォンにまつわる思い出などを中心に書いていただく、ということで最初に当連盟の金子監事にお願いしました。次回はあなたかもしれません。お楽しみに。
金子 孝 (元 株式会社東京サウンドプロダクション社長)
 一切の仕事から引退した今、一番困るのは「あなたは悠々自適の生活をしているようだけど、どんな仕事をしていたの」と聞かれることかもしれない。
 悠々自適の生活はいささか疑問ではあるが、はた目にはその様に見えるらしい。そんな問いかけに答えるのが面倒なときは「テレビの番組を作っていました」と答えることにしている。一般の人にテレビの映像がどうの、音がどうのと説明する方がご退屈だろう。実際には(株)東京サウンドプロダクションという会社で、音響効果→ロケーションの録音→カメラマン→ポストプロダクション等の経営、といろいろなことをやって来たのだが、考えて見ると音響効果と録音の時代が一番長かったことは間違いない。
 「私とマイクロフォン」というテーマで原稿を書かせていただいても特別ウソにはならないだろう。
 原稿の始めにあたって簡単に私の歴史を紹介させていただく。生まれは昭和八年、大学の専攻は土木工学、ダムや橋梁を作のだ。そう、最近やたらと評判の悪い公共事業を主なお客とする業界である。その大学の四年間、土木の仕事もいいな、男の仕事として悪くない、なんせでっかいし、やりがいがある。と思って過ごしたものだ。しかしそんな学生生活の中で大きな転機が訪づれる。音に狂ってしまったのだ。中学時代から好きだったラジオ作りが高じて音の世界にのめりこんでしまったのだ。
 そこで私自身、土木業界に行くのか、音の世界にとびこむのか選択をせまられることとなる。大学卒業が迫るにつれて、音の世界への想いは募る一方になる。つまり心の中の天秤が音の方へぐっと傾いてしまったのだ。しかし音で生計を立てるということは、この昭和30年頃は至難のことであった。職場として考えられるのは、ラジオ(民放は未開局)か映画の録音か、レコード会社ぐらいしか考えられない時代であった。四年間の大学生活をさせてくれた親へも顔向けができない。悶々とした日が続いた。そんなある時、ちょっとしたきっかけから、当時舞台や映画の音響効果の第一人者、園田芳龍氏の門を叩くこととなる。勿論これは職を見付けられたというものではなく、いわゆる弟子入りである。今の若い人には弟子入りなんて落語の師匠と弟子の関係ぐらいしか思い浮かばないだろうが当時のこの世界はまさにその弟子入りなのである。師匠のカバン持ちなのだ。そしてまとまった仕事をしたときだけそこそこのお給金を頂くという世界なのだ。しかしここでの三年間の苦しい生活の中で、私の音への考え方が大きく進化したという意味ではこの園田師には深く感謝している。又、特筆すべきは、私と相前後して入門して来られたのがなんと現特ラ連理事長の八幡泰彦氏であったのだ。やがて昭和30年代半ばになると民放が次々に開局する。その中の一つに日本教育テレビ(現、テレビ朝日)があり、ここの音響効果マンとして働くことになる。しかし社員としてではなく、あくまでもフリーとしてである。
 開局時代の大忙しの中での色々の笑い話は別の機会にゆずるとして、当時同じ職場で働いていた効果マンたち数人と語らって会社を設立した。昭和38年のことだ。
 (株)東京サウンドプロダクション(TSP)はこのようにして誕生した。TSPの主な業務は音響効果、選曲であったが昭和42年頃になるとそれまでのフィルムによるドキュメンタリー作りが少しずつ変化し始める。即ち、これまでの手法は同期性のないカメラとデンスケ録音機による収録が主であったが、ナグラ等の出現により完全同期が可能となり、音の表現が進化し始めたのだ。そんな状況の中での私の生活はTVのスタジオでの音の仕事からナグラをかついだロケーションへと除々に変わっていった。当時の録音マンの持って行く機材とはナグラとハンドマイク(三研のMS-5等)と、やっと出回り始めたピンマイク(ソニーのECM-50等)ぐらい。これではいくら腕がよくったて自ずから収音の限界は知れたものである。因みにガンマイク(ゼンハイザーの415や815など)はそれからなお数年後のこととなる。
 ある時、関西地方に取材に出かけた。被写体はプールの中、しかも水面でしゃべるのだ。困った。音がとれない。苦しまぎれに釣竿を持ってきた。そして釣竿の先にECM-50をガムテープで貼り付けてプールの端から延ばした。そこで見物に来ていた近所の悪ガキがほざく。「おっちゃん、アホトチャウカ、こんな所に魚なんか居らへんで」
 このガキは釣竿の先にマイクがついているのを知っていたのだろうか。このガキの一言がそれからの私の録音哲学を大きく変えてゆくことになった。やはり、よいドキュメンタリー番組の音を録るためには飛び道具が必須だ。即ちこの悪態をついたガキの一言が以後何十年にもなるワイヤレスマイクとのつき合い始めになるとはそのときは思ってもいなかったのである。考えてみればあのクソガキも今ではもう40代半ばの分別盛りのオヤジになっているだろう。
 早速、規模は小さいが優秀な人材が揃っているといわれるあるメーカーに試作品を依頼した。数ヶ月後に出来てきたプロトタイプの送受信機はとても実用になるものではなかった。F特はだめ、S/Nはわるい、音のリニアリティーはひどい、電池が保たない。そのとき思った。「これは大変なことに首をつっこんでしまったぞ」と。オーディオ社、マイクロン社のワイヤレスマイクが日本で発売される2~3年前のことである。今、TVの取材等で大きなシェアを持っている、TSPのmini Reporter(注)というA型及びB型のワイヤレスシステムのルーツはここにあるのだ。
 この使いものにならないプロトタイプが出来てから、やっと自社使用が可能になるものが完成するまで早くも7〜8年の歳月が経っていた。そんな時、テレビ朝日の要請でソ連に行くことになる。昭和51年のことだ。勿論、今のロシアではなく、バリバリの統制国家ソビエト連邦である。たしか首相はフルシチョフ。モスクワのオスタンキノにあるモスクワ放送を據点にして日本へ生中継しようという企画なのだ。私もいろいろのことを想定して機材を用意したが、その中に400MHz帯の3セットのワイアレスマイクが含まれていた。
ソ連の電波事情など全く情報がない。もし入管で没収されたら、その時はその時と度胸を決めていた。幸いノーチェックで通過、というより、ソ連の入管は機材に関しては全く無関心といった方がよかった。
 さあいよいよリハーサルが始まった。冒頭のシーンはモスクワ自慢の絢爛たる地下鉄のホームに、レポーターとして同行した栗原小巻さんがエスカレーターで降りながらオープニングのトークをするという設定なのだ。
 モスクワの地下鉄は地下60mという大深度設計で、地上からは100mを越す長いエスカレーターで一気に降りる構造になっている。しかもそのエスカレーターがやたらと速い。同じ大深度地下鉄でも、先頃開通した大江戸線のそれとは随分とちがうのだ。
 さてこのシーンをモスクワ放送の音声スタッフはどうしたか。マイクケーブルを数人がかりで送り出しているではないか。長くて速いエスカレーターについて行けない。危なっかしくて見ていられない。
「これ使ってみないか」見かねて私が云った。彼らはケゲンそうな顔をした。そして不機嫌に云った。「いつもこの方法でやっている、所でそれは何だ」つまり彼らはワイヤレスマイクの存在を知らなかったのだ。私は彼らのケーブルに受信機を接続して自分でマイクを持ちエスカレーターを降りた。彼らは「………」目を丸くしていた。そして本番もこれを使うことに決定。生中継は無事終了。大成功だった。それからが大変だった。
「オーチン ハラショ」の連発だ。そして音声スタッフ全員に抱きつかれてチューをされた。今の民主国家ロシアでの、ワイヤレス事情は判らない。しかし恐らく彼等にとってもワイヤレスマイクは必須の収音のツールとなっているだろう。軍隊の電波にさえバッティングしなければ、どんな電波もOKというお国柄だからだ。
 最後に一つ告白をしたい。私自身65才を期に一切の仕事から引退し、好きな音楽を聞きながら自由を楽しみたいと思っていた。そしてその思い通りに実現し、自由な生活を謳歌し始めたその時である。好事魔多しとはこのことだ。ある朝目覚めると、何かいつもと違うのだ。いつも聞こえる我が家の前を元気にオシャベリしながら登校する小学生の声も、かすかに聞こえる街の騒音も、いつもと違うのだ。あわてた。指を耳の穴につっこんでゴソゴソやって見た。右の耳はOK、しかし左がおかしい。好きなクラシック音楽のオーケストラの舞台下手の弦が聞こえなくなってしまうのか。いやそんなことはないだろう。いろんなことが頭の中をグルグル廻った。取敢えず耳鼻科に行って見た。
 「すい分悪くしてますね、突発性難聴です、しばらく点滴に通いなさい」。「よくなるでしょうか」と私。「お年もお年ですから100%元通りにはむづかしいでしょうね」担当医は冷たく云った。後にいろいろ事情を話し私の永年にわたる音とのかかわりを話すと、「音楽家の中には意外と早く難聴になるケースがあります、耳に一番悪いのはストレスと大きな音を長時間にわたって聞くことです」なるほど、それは両方とも思い当たるなと思った。
 考えて見ると現役時代には、徹夜に近い仕事をしてからやっと解放されて家に帰ったと思ったら、又好きな音楽を聞いたりする生活がずい分続いた。耳だって疲れ果て悲鳴をあげたのかも知れない。そして3年たった今、左耳の聴力は大きく落ちたままである。
 なぜこんなことを恥を忍んで申し上げたかと云えば、当連盟の会員の皆様は多かれ少なかれ耳を酷使して居られるはずだ。もし突然、耳に異常を感じたら、すぐに信用出来る専門医に行って欲しい。一週間が勝負だそうだ。
 あのプールでの悪ガキにからかわれた時代と今では、ワイヤレス事情は比較にならない。それだけに当連盟の存在があってこそスムーズな運用が行われるのである。
 これからも益々の特ラ連の発展を祈念しながら筆をおかせて頂く。
*(注) 現在TSPの製品は(有)アプローズシステムにて販売

金子さんの略歴
昭和 8年 1933年生まれ   69才
昭和30年 東京教育大学(現 筑波大学)卒業
昭和31年 園田芳龍氏の門下生となる
昭和33年 日本教育テレビ(現 テレビ朝日)の音響効果として契約
昭和38年 (株)東京サウンドプロダクション設立
昭和45年  同 社長就任
昭和61年 (社)日本ポストプロダクション協会(JPPA)設立に参加
 同 協会初代会長に就任
平成10年 (株)東京サウンドプロダクション退任
現  在 (社)日本ポストプロダクション協会 顧問、JPPAアウォード実行委員長
特定ラジオマイク利用者連盟 監事