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八幡 泰彦


今回の大震災により亡くなられた皆様に心から哀悼の意を表しますととともに、被害に遭われた皆様に、一日も早くご健康と健全な生活を取り戻されるようにお祈り申し上げます。

さて、時にはくどく、時にはすっ飛ばして我が反省記は会社創業にやっと辿り着いた所で一休みさせて戴くという事になるのですが、特ラ連が始まるに至った経緯だけはお話ししておかなければと思いますのでそのことをもう一寸。

あれはもう今から22年(1988年頃)以上も前の事になりますか、ミュージカル熱も一応落ち着き、ワイヤレスはこんなものだろうという評価(必ずしも高くはない)で、音響の仲間内では敬遠するに越したことはないなどと話し合ったものでした。しかしニーズは落ちる事がなく、それどころか増える傾向にありました。一方では外タレの持ち込むワイヤレスには電波法上では禁制の品物だが飛びの良い物や、電気的性能に優れたものもあるらしいとか、色々な噂が飛び交っていました。
 1988年の頃というのは私がこの業界に入って20年をようやっと過ぎた頃ですがPA関係の仕事からみると調整卓を中心とする収音機器や周辺機器、スピーカーシステムの開発などスタッフワークもシステム化されるようになって急速に形を整えてきました。しかしながらワイヤレスを取り巻く環境は相も変わらずで混信、送信出力不足、送受信周波数不安定などに悩まされていました。それに加えて送信出力は年々抑えられる一方でした。要するに僕らが扱うワイヤレスマイクの世間的な評価は所詮玩具の域を出ることは出来ず、社会的には認められていないんだと、半分は諦めの気分でした。そんな折M社がダイバシティの受信方式の提案があったりしたものですが、値段も高く気分的に乗れませんでした。

それやこれやでワイヤレス環境は閉塞状態にあった時、郵政省から呼び出しがありました。帝劇の並びの「東商ホール」で新型ワイヤレスマイクの提案があるから集まれとのことでした。東商ホールは東京会館の隣のビルで立派な佇まいの建物の中にありました。女性が案内に立って席を教えてくれました。席は効果家協会の田村さんの隣でした。全部で約30人程でしたが、皆さんスーツできちんとしていました。
 ややあって、役人らしい人が今日の会の趣旨説明をし始めました。それによると「この度の電波法の改正にあたり、微弱の範囲で自由に造られ使用されてきたものが、今後はそうも行かなくなる事、従って法によって決められた周波数を使用する事しか許されない事、制度化された機器は試作品を持参したので検討されたい」。そのほか色々あったらしいのですが、「大変なことになった」との印象が段々強くなって頭の中が一杯になりました。

同席している方に仕事の向きを訊きましたが、劇場関係者は田村さんと私だけでした。
 殆どの方はカラオケ関係、水商売の方かそれ関係の人だったかと思いますが、ヤ印の方はいなかったようでした。JASRACの人はいたような気がしていますが、それはそれとして。それにしても劇場関係の人が少なすぎるので主催者側の人に聞いたところ、「劇場側としては現状に満足している」との答えを劇場の現場の人から聞きとっているとのことでした。
 そう云えば郵政(省)の立ち入り検査があるらしい、数で云っても5セット以内ならよいが、それ以上あると没収される恐れがあると云う噂があって多少緊張気味だった事がありました。その頃は40MHz帯に4ステーション、50MHz帯の始めの辺りに1ステーションワイヤレスマイクの専用帯として認可されていると云う事は弁えていましたが、まさか“微弱”の範囲を越えなければどこの波を使っても良いという、言わば法規制の外にあるとは知りませんでした。(微弱の範囲が規制されて実用範囲外の弱さになった事やスプリアスの影響は出力を下げることによって少なくなるなどの説明は後で聞きました。)
 この説明会の後半で新法によるワイヤレスの音の綺麗な事やPLLによる送受信の安定の具合の実演になりましたが、田村さんも私も送信機と受信機の距離ばかりが気になって仕方がなかった。それと云うのも10mWだと保証できる距離は10mだといい、カラオケで実証済みだというのには同席する皆さんには受けたが、田村さんと私には受けなかった。「そんな、黒子がアンテナをもって役者についてうろうろするざまは考えたくもないし、察するに劇場のワイヤレスマイクの使用実態も調べないで取り返しもつかない結果を見せるとはなんだ」と田村さんはあの声で云いました。云ったように覚えています。
 一般用と劇場用は分けて考えてほしいと云い残してその場は収まりました。その後郵政省に関係者が呼び集められ、研究会が何度も持たれました。今で云う「ヒアリング」とか「パブリックコメント」の収集とかに当たる作業だったように思っています。しかし驚いたのは郵政省側の陣立てでした。なにしろ若い。当時の私も若かったけれど、私よりも若かった。何にもまして感動を覚えたのはワイヤレスマイクの実用化について真摯な姿勢でした。
 京都大学を出られた方が課長補佐として私達の問題を担当されましたが、この方の勉強の仕方が凄かった。こちらの質問に答えられないと翌日には模範解答を用意してくると云う塩梅で歯切れのよい方で、随分教えられたものでした。ただ進み方は迷走気味でその訳が判らなかったのには悩まされました。「天の声があればな」と云う誰だかの声で芸団協の尽力によって当時の会長だった中村歌右衛門丈の一声で、一挙に立ち込めていた暗雲が吹き飛び、制度化の道が拓けた事は今でも感謝しています。

制度化の道が拓けた事は良かったのですが、混信しない事をどう云う仕方で保証するかの問題が浮上してきました。
 組織を作らなければ担保できないし、どう云う組織にするべきか、予算規模はどのくらいに考えればよいか、全国を掌握しなければ一件でも漏れがあってもワイヤレスマイクの運用に支障をきたす、それに対する対策は、等などそれこそ“山積み状態”でした。
 そんな時に芸団協の方に愚痴を言ったらホリプロの社長の堀威夫さんを理事長として紹介してくれました。これが良かった。世の中の仕組みそれについて誰がキイマンか、誰に会えば有効か、など指導よろしきを得て随分勉強しました。
 スタッフについては当時「読売録音」の社長だった根本さんには大変お世話になりました。殊に日本短波放送でミキサーを卒業された三崎さんには事務局長として頑張って頂きました。感心した事は粘り強い事、事務能力に長けている事などです。ある日フト何でそんな人脈を根本さんが持っているのかをお聞きしたら、「出身は電通大だ」とのことでした。

その後運用連絡を確実にするためには放送局の中継が持っているFPUとの連絡協議会を作ることでお互いに確実な運用を担保できるとの指導を受けて、特ラ連と全国のNHKと民放との協定書を取り交わす事が出来ました。
 平成2年、特ラ連のスタート体制は整い、具体化するための準備にスタッフは多忙を極める日が続きました。今にして思えば中村歌右衛門丈、堀威夫さん、根本さん、三アさんという人脈の妙が功を奏したのではないかと思います。
 平成2年7月2日、特定ラジオマイク利用者連盟はスタートしました。

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