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八幡 泰彦


木馬座との出会いは今考えても相当に意味のあるものになります。この後の木馬座での経験は驚きの連続と、それこそ身の程知らずのチャレンジを“いつの間にかしてしまう”結果になりました。

仕事を始めて以来最初に出会ったことは「資金繰り」でした。バイトとはいえ約束した人件費は払わなければいけない。親戚に相談したら突然人相が変わった。「利子は貰うよ、返済は待ったなしだ。期日の三日前には必ず連絡をしろ」、などとそれこそ“虎の尾を踏んでしまった”感じでした。
 仕事の予定が入るにつれてお金の用意が必要になる。その額がタダ物ではなくなる。慌て方も尋常ではなくなる。身近な知り合いにとりあえず相談をする程度では済まなくなって来るのは目に見えていました。そこで銀行に出かけました。
 銀行は新宿の富士銀行と住友銀行でした。両行とも新宿駅前だし、普通預金口座を作れば駐車場を使えるしといった、ちょっとした思いつきで決めたのでしたが、なんということもなく住友銀行にしました。「支店長にお会いしたい」「ご用件は?」。それから大分待たされた挙句、若い人が出てきて「何でもご相談ください、私が担当です」みたいなことを云いました。名刺には「ご相談係」とあったような気がしたけれど、アレコレあって結局「区役所で相談に乗ってくれるからそっちの方に行ったらどうでしょう」と云うことになった。
 区役所に行ったら「新しく事業を始める方はこちらへ」と云うような葬式の案内指印しみたいなのに従って座ったら、年配の親切そうなおじさんが出てきた。
 「なんでお金が要るの?」「そうなの。でなんという劇団?」「知らないな、その劇団の名前、で、なにしてんの?」「音響?効果?なにそれ?」立て続けに色々云われ、答えに詰まった私に、「計画書も収支の予定表も一人歩きするものだからその心算で書かなければいけない」「此処で作った書類を私が所内を直接持ってまわって説明してハンコ貰うわけじゃないし、誰が見ても納得できるように整えないと、それにはまだ足りないねぇ」何が、と聞くわけにはいかないし、締切期限には充分間に合うと励まされ区役所を出ました。
 その後2、3度書類提出をしましたが、都度此処が悪いとか書き方がどうのとか云われ、こんな思いをする位なら辞めようかとまで思いました。
 このスッタモンダの最中に金繰りは何とかなりそうな気配になってきましたので、おじさんに、なんとかなりそうなので止めようかと思うと云いましたら、烈火のごとく怒り「自分がここまで身を入れているのに、なんだ、その結論は!」と怒鳴られました。
 自分が担当している零細企業のなかで「音響」は初めてで、しかも浮草的な仕事としか思えない事、話を聞いている内にこれからの仕事かなと思い始めてきたこと、書類を返す度毎にキチンと指摘したことが訂正されていることなどから結構真面目な態度が感じられ、関係する人たちも好感を持ち始めていることなどを縷々説明されました。
 この書類訂正は殆ど妻の仕事でしたので、私はその苦労を見るにつけ、とんでもないことに首を突っ込んだものだとの思いがだんだん募ってきたもので仕事先や支払先を巡ったことから「金繰りはなんとかなりそうだ」という結論には自分を含めた関係諸氏を喜ばせることになるに違いないと思ったのでした。「それは根本的に違う」「公的な資金が使えるのは社会的な信用を得ることになるんだ。銀行の態度も変わるぞ」今この機会に口座を持てばマチキンに頼るようなことはなくなる。実際このことがあってから銀行の態度は変わったようです。
 自分よりもわが事のように興奮、感激している人に出会ったのは初めてでしたので感動しました。その後書類も通り、実行されましたが、「くれぐれも運転資金には使うなよ」「設備資金の調達が目的だぞ、案内パンフレットに書いてあるでしょうが」読み直してみると確かにそう書いてある。幸い、当初の目的だった「資金繰り」は目途がついたので設備投資に目を向けると「ナグラW」のカタログが飛び込んできた。
 「ナグラW」は報映産業が代理店でしたので電話したら、担当さんが初めての取引は現金決済だと緊張が見えるような調子で云いました。全アクセサリー込みで90万円弱になると云うので見積書を作ってもらい、その見積書を区役所に提出して国民金融公庫から銀行に振り込まれる段取りになりました。
 銀行で口座を作ったらどうかという話もありましたが、そうなると器械の顔が早く見たくなる。現金を持ち歩くのは危険だから2,3日掛かるけど小切手にしたらどうかと云われたのも、現金を持っていることを知っているのは銀行の貴方しかいないんだから、とか云って結局現金にして貰った。それをボストンバックに詰めた時の手触りには何故かゾッとしたことを憶えています。
 報映産業の石井さん(本部長を最後に勇退されたと聞いています)が当時新入生だったのは後で知った事ですが、本当の「現金」と聞いて驚いたらしい。私と二人で廊下の片隅のソファで、人が通るのも構わずに、今の相場にすると約一千万円に近い札束を二人の若造がお互いに不信感を抱きながら勘定をしている様はさぞかし奇異に思われたことでしょう。
 こうして手に入れた「ナグラW」はその後のサウンドクラフトの信用のために相当役に立ちました。あまりなかった映像関係の仕事も「ナグラW」のおかげでボチボチ入る様になりました。

木馬座の仕事も増え続け、それに追われるのも楽しくさえ思えました。ことによったら自虐的な所もあったのでしょう。突然「武道館でケロヨンを中心にしたショウをやりたい」と云われました。子どもたちは車が好きだし、ケロヨンも車が好きだし。そういえばトヨタの2000GTも木馬座で買ったばかりだし、ベンツのガルウイングもあるし。そう、当時の木馬座は最新の自動車で溢れていました。

PAは音研の岡本さんと日比野さんでした。高い脚をつけたトランペットSP群がアリーナをカバーし、音声を要領よく伝えていたと記憶しています。私たちはPA以外の音響を担当しました。基本は子供相手なので一応は台本があったのですが、本番になったらそれこそ火事場の騒ぎでした。定員以上の観客が詰めかけ「表」も大変だったらしい。
 この「ケロヨンショー」の企画の発表と並行して(だったかと思いますが)、「ケロヨンの自動車レース」と云う本編映画の製作プランが発表されました。制作プロダクションは東京ムービー、スタッフも一流、録音はアオイスタジオ、効果はサウンドクラフト。これにはいささかビビりました。が、褌を締めてかからなければと緊張しました。
 木馬座との仕事が始まった当初、当時の仲間たち(堀内さん、森谷さん、百々さん、吉越さん、中島さんほか総員7人位でしたが)と此処で発生する仕事は取りこぼしなく総て引き受けようと決心したことを改めて確認し合いました。
 ここで出逢うことは将来プラスにはなってもマイナスにはならないだろうから。

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